自分の「学び」の特徴

自分が「教師教育学」という本を読んでいて、

「あぁ、なるほど」と思うことが多いので

なぜ「あぁ、なるほど」と思うのかをふと考えてみました。

 

例えば教員一年目の自分はこの本を理解できたか。おそらく「理解出来ない」「興味がわかない」「何の共感もない」と思ったでしょう。つまり、昔の自分には到底この本の価値が分からなかったはず。

 

しかし、今は全くその逆です。

なぜか。多分、この本を読もうとする前提の興味関心、必要性、知識、思想を自分自身が持っているからだと思います。

 

「学び」には実はそのような「学習者が持っていなければならい、前提条件が必要である」と思うのです。

そして、前提条件は、学習者の「経験」によって決まっていくものだと思います。(経験から学びがスタートするのです)

 

本を読みながら自分の脳内で何が起きているのか考えてみると、『学び合い』を入り口とした「自分自身が学んできたこと」と「本に書かれていること」の比較です。

 

それによって「強い共感や納得」(自己の理論の強化)や「易しい疑問」からの「分かりたい気持ち」(新たな課題発見)が生まれます。

「強い共感や納得」はこれまで学んできたことを、筆者が別の切り口で整理してくれたものを取り込んで、より良く自分のものにしていくことだと思います。私のイメージでは、既に自明である理論がより強くなるようなイメージがあります。私はこの過程を「自己の理論の強化」と勝手に名付けました。因みに、同じ考え方の本を読めば読むほど、「自己の理論の強化」は進むと思います。言い方を変えると、偏りが生じます。

なので、違う考え方を述べる人がいることを知り、その人の考えをよく咀嚼する必要もあるのだと思います。それが、違った考えに出会った時に生じる「易しい疑問」です。

「易しい疑問」は、全く新しいものに出会って、全く分からない状態に陥るような疑問ではありません。

自分の経験を少し越えるような疑問です。「ん?これはどういうことだ?本当かなぁ。」などという疑問です。

 

自分の経験の範囲で収まる学習や経験(安心ゾーンに収まるもの)は、それほど自分の成長を助けません(とは言っても、安心感は大前提ですが)。自分の経験を少し越える学習や経験(挑戦ゾーン)によって、「分かりたい気持ち」が生まれるのだと思います。それが、新たな学びの原動力となるのです。

易しくない学習や経験に立ち向かう人ももちろんいますが、あまりにも易しくない学習や経験は、学習者の混乱を招き、学習者は学びを放棄する可能性があります。

大切なのは、学習者が自ら安心ゾーンを少し飛び越え、自分の成長のために挑戦することです。

 

全く新しい知識を学ぼうとするとき、結局、本を読むなどして理論を獲得するところを入り口とするのは、ややハイレベルのように感じます。

経験から「学び」がスタートする。このことがあらゆる「学び」に大切なのだと思います。

 

学ぶことについてもっと考えたほうが良さそうですね。

これまでの自分の学び、そして今自分は学んでいるのか。どのくらい世界を広げられているのか。

 

『学び合い』に出会う前の自分ならどうかといえば、この本が目の前にあっても見向きもしないだろうし、「読め」と言われても読む気も起きないし、理解も、共感も出来なかった。この本の価値など微塵も感じなかったでしょう。正直、自分自身、「学び」を放棄していました。本格的に放棄したのは大学の時でしょう。勉強は大学に行くためにするものと思い込んでいましたから。だから、大学で自由の身になって失敗しました。

 

このような振り返りも、自己の「学び」の分析になるでしょう。

 

「学び」には特徴があるのか。これを知るために「教師教育学」は非常に価値のある本だと思います。

 

自分の学びを考えることで、生徒の学びを考えることが出来る。

自分の学び(に限った話ではないですが)は入れ子構造のように生徒の学びにつながっているのです。