周囲何kmを、前後何年を「自分事」と思えるか

学校で働いているといろんなことを考えます。いろんなことが起こるから、考える材料がいっぱいあって楽しいです。

ここから先は完全に自分のワールドで話をしますので、読まれる方は適当に読み流してください。笑


人間の成長って、どういうことなのか。

最近、一つ自分の中で整理できたものがありました。


自分の周囲何kmを「自分事」と意識できるか。(空間的意識範囲)

自分が生きている前後何年を「自分事」と意識できるか。(時間的意識範囲)


この範囲が広がっていくこと(勝手に「意識範囲の伸展」と呼びますw)が成長の形の一つなのかもしれないなぁと感じました。(私の中で「意識」≒「認知」です)

先に結論だけ言っておきます。

 

自分事 x 知識 = 意識範囲の伸展 = 成長

自分事 = 一人も見捨てない x 体験


そして、意識範囲が広い人ほど、必要な知識を自ら求め、あらゆることを「自分事」として感じることができるのだと思います。これは、正のフィードバックみたいな感じですね。(完全にワールドですw)

 

多分、何か学問的に確立されている理論かもしれませんが、自分で勝手に論じます。笑

 

乳幼児期は自分が目につく範囲の様々なものに興味がいきます。この時点では、ごく狭い空間的意識範囲しか意識できないでしょう。

また、乳幼児は「これをするとこうなる」というほんの数秒先の未来を予測する力を、実験的に獲得しているのだと思います。これは、極々狭い時間的意識範囲ですね。

 

例えば、車が近づいているにも関わらず、子どもは道路に飛び出してしまいます。これは、子どもの意識が自分から極々狭い範囲にしか及ばないことと、道路には車が走っていることを意識出来ずに、直後に自分の身に降りかかることを予測できない、つまり時間的な意識も極々狭いことによるのだと思います。

 

ヒトは成長するにつれて、体験的にある程度まで意識範囲が広がっていきます。

 

しかし、体験的にのみこれを広げていくには限界があります

例えば、日常生活だけで、日本各地の様子を知ることはできません。日常生活で伸ばせる空間的意識範囲は、精々市区町村内や都道府県内レベルでしょう。つまり、自分の生活圏内ということになると思います。時間的意識範囲であれば、数ヶ月〜1年くらいでしょうか。日常生活に関わるレベルまでしか伸ばせません。

体験よって意識範囲を生活圏内レベルよりも広げるためには、日常的に全国各地を訪れるしか方法はないでしょう。それはほぼ不可能です。あるレベルまで意識範囲が広がってしまうと、日常レベル以上には意識範囲は広がりません。

 

そこで学校制度が登場します。

小学校からは意識範囲の伸展が、学習によって得られた「知識」によって補われます。

 

例えば、社会で「まち」を扱えば、自分たちの地域や自治体を意識するようになるでしょうし、歴史を学べば自分が生きている現在を基準に過去に何が起きたかを知ることができます。(といっても、この時点で現在とのつながりが理解できる子がどれほどいるのかは分かりませんが)


しかし、学校で「知識」を得ても意識範囲が伸展しないことがあります。「知識」が、自分と関連づけられないことが原因です。「知識」だけがあればいいのではないということです。どんなに学んでも関連づけがないと「知識」という点が沢山生まれるだけなのです。

 

例えば、東日本大震災後、原発事故によって避難を余儀なくされた人たちが、未だに仮設住宅や他の都道府県で生活しています。その人たちがどのように生活しているのか。自分の生活がこの人たちとどう関係しているのか。自分はこの人たちのために何ができるかを考えるとき、初めて学校で学んだ「知識」が「自分ごと」となるのだと思います。この関連付けは結局のところ今存在する「問題・課題」に気付いた時に起きやすいものだと思います。

歴史などにも同じことが言えるでしょう。「問題・課題」を探る時に、歴史の知識が活かされると思います。

 

先ほどの「まち」の話に戻すと、中学校の公民や高校の政治経済で地方自治体・国について学んでも、自分がその社会の形成者の一人であるという自覚がない限り、ただの「知識」で終わってしまいます。自分と社会が切り離されてしまうのです。

 

余談ですが、現在の日本の状況で選挙があるたびに「投票に行こう」と呼びかけても、あまり意味をなさないと思うのです。政治が「自分事」として意識できない限り、その票が有権者の意志として反映されないのですから。

結果、政治家は票集めに奔走します。国民が政治家の表面しか見ないことを逆手にとっています。票集めに成功した人勝ちです。ふたを開けてみれば「こんなはずではなかった」ということになりかねません。

一度その大惨事を経験しなければ「自分事」にはならないのでしょうか…教育の役割は大きいです。

 

今、学校で行われている学習の多くは「知識」の習得です。意識範囲の伸展は各自に委ねられています。そして、意識範囲の伸展には「自分事」が必要です。「自分事」は「問題・課題」への気付きが大切です。

 

ではどうすれば、「問題・課題」を感じるのでしょうか。

すると行き着くのはやはり「一人も見捨てない」という考え方なのです。 

 

例えば、遠くパリで起きた同時多発テロが自分とどう関係しているのか。自分が何をしたら良いのか。本気で考えらますか?

そして、テロ実行犯の生い立ちや社会的背景から、イスラム教やそれに付随する何百年レベルの歴史的背景が自分とどう関係しているのか。そして、これから先、10、20、30、…50、100年後、世界はどんな社会に変化していくのか。自分はその社会とどう関わっていくのか。一人も見捨てないことがベースにあると、どんな広い意識範囲でも「自分事」になると思います。

 

私はつい数年前まで非常に狭い範囲しか見えていなかったと自覚しています。

「知識」は習得してきたけど、「自分事」ではありませんでした。

しかし、今の勤務校ではたらき始めてから様々な出会いと体験がありました。おかげでこれまでの「知識」はつながりはじめ、教育は「自分事」になってきました。すると、自ら意識範囲の伸展をしようと思うようになりました。

今尚、意識範囲の伸展は続いています。(最近、灯台下暗しなのは否めませんが…)


多くの人は体験から「自分事」を意識できるようになるのだと思います。学校は「一人も見捨てない」ことを通して「自分事」を体験する場だと思います。そして、学校で得た「知識」との相乗効果で意識範囲はどんどん伸ばせるのだと思います

自分事 x 知識 = 意識範囲の伸展 = 成長

自分事 = 一人も見捨てない x 体験


でも、これ結局、知識(点)を増やして、関連づける(点と点を結ぶこと)こととあまり変わりないですね。この関連づけの対象が「自分」であることを除いては。勝手に自分で落ちました。なんだー。

 

以上、まとまりませんでしたが最近考えたことでした。

0 コメント

自分の行動が他へ与える影響

今日のニュースステーションにて。

「税の奪い合い?「ふるさと納税」の現実」

http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/news/detail.php?news_id=44224

 

ふるさと納税は、任意の自治体へ納税できるシステム。寄付した分の税額が納税者の自治体の住民税からほぼ全額控除されます。さらに、納額の約半分に当たる価値の礼品をもらえるという特典付き。礼品は様々ですが、その自治体の特産品などが多い様です。

例えば、自治体Aに住む人が6万円を自治体Bに納税すると、自治体Aからは住民税5万8千円が控除され、自治体Bからは、約3万円分の礼品がもらえるのです。つまり、実質納税額2千円で、約3万円分の特典がもらえるということになります。そりゃ、みんな納税したくなります。

 

しかし、このシステムで今「税金の奪い合い問題」が生じています。つまり、「目玉商品」ならぬ「目玉礼品」で納税者を釣って、税収を増やそうとしているのです。何が問題かというと、目玉礼品がない自治体の税収が減ってしまうということです。

 

例えば、際立った特産品が無い(といったら失礼ですが…)群馬県太田市では、太田市が他の自治体へ納税し得た礼品を太田市のふるさと納税の礼品としているとか。しかも、太田市民限定で募集しているらしいです。これは、財源の流出を食い止めるためにはやむを得ないことだと思います。

また、礼品の競争が激化し、より良い品物を用意しようとすることで、結果的に自治体の財源が減ることになるとか。

 

おそらく、Nステで取り上げられた自治体は氷山の一角でしょう。対策ができておらず、もっと財源が流出している自治体はありそうですね。

 

財源不足を個人の判断に委ねたことが失敗だ。財源は全体を俯瞰できる行政トップできっちり管理すべき。という様な意見を憲法学者の木村草太氏は言っていました。

消費税を8%から10%に引き上げて、税収を増やそうとしている矢先に、地方の税収を減らすような政策を国が進めている。と言うのは元総務相で慶応大教授の片山善博氏。

 

なるほど。

我々末端に生きる市民は、他への影響を考えられるようになることが大切ですね。自分の利益追求も良いですが、それによって他へどのような影響を及ぼしているのか。

今回の場合はつまり、礼品に目がくらんで他の自治体へ納税するのは良いですけど、その分自分の住んでる自治体の税収が減って、自分の生活に影響を与える可能性があるってことですね。さらに、日本全体で見れば、地方自治体の税収格差を生んでしまっていることになり、ふるさと納税者はその格差を生じさせている一人になるかもしれないと考えると、どんなにお得なふるさと納税も躊躇いますね。


とても、考えさせられる話でした。

視野をどこまで広げることができるか。

自治体レベルの市民という視野。

日本国民という視野。

海を越えた共同体(地球市民?)という視野。

 

政治や経済などの社会現象だけではなく、生態系などにも当てはまる話です。

政治家だけが、より広い視野を持ち、他への影響を考えられればいい訳ではないと思います。逆に、そのような考えを持てる人が政治家をやれば良いというのも違うと思います。あらゆる人の行動が、相互に影響を及ぼしあって社会が成り立っていることを自覚し、自分の行動に対する他への影響と折り合いをつけながら生きていくことが、「良き市民」としての役割なのかなぁ…と感じました。

 

なんて言っている自分が一番行動が伴わないのですがw

 

自分の行動は他へのどんな影響を及ぼすのか。考えてみるのも面白そうですね。


0 コメント

「平等」という名の不平等

学校現場において、教員は生徒に対して平等でなければなりません。

が、しかし、ここには落とし穴がある気がします。

平等な教育 = 画一的な指導

になっていないかということです。


画一的な指導というのは、すべての生徒に対して、同じレベルを求めるということです。様々な意味で。

一見良さそうですけどね。でも、能力とか、価値観とか生徒も多様なわけなので、同じことを求めても、できる人とできない人は出てくるでしょう。つまり、それぞれに合った教育でないと平等とは言えないのではないかと思うのです。

だから、「選択」が必要なのだと思います。選択の幅が広ければ広いほど、その人に合った教育を受けられる可能性は高くなる。
もちろん、初めから合う教育、合わない教育が固定されているわけではありません。初めは合わなかったけど、徐々に合うようになることも考えられます。なので、選ぶことで100%その人に合う教育に出会えるとは限らないことには留意しなければなりません。

教育における本当の平等とはあらゆる点で「機会均等」であることなのではないかと思っています。
例えば、選択の幅が広くても、その選択肢を知らなければ選べないです。教育を受ける権利を持つ生徒から、その機会を奪わないように心掛けたいですね。

これまで良しとされてきた指導方法の中には、学ぶ機会を奪ってしまっているであろうものがゴロゴロしています。
謹慎指導とか…。下手すると、レッテル貼りで終わってしまいますからね。
機会は均等にしておいて、子どもの意思でそれを受けるかどうかを決める。すると、子どもは主体的に自分に必要なことを考えて、行動するようになるのではないでしょうか。

0 コメント

トリコロールを掲げること

11月13日パリで発生したテロにより亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げます。そして、フランス国民、パリ市民、その他テロ被害の関係者の方々の怒りと悲しみに対し、何と言葉を表したら良いかわかりません。みなさんの気持ちに寄り添い、元気付けたい気持ちとは裏腹に、何をすればいいかが分かりません。
日本を含めた世界各地の著名な場所で赤・白・青のフランス国旗トリコロール柄でライトアップし、追悼の意を表明しています。
Facebookでもトリコロールをプロフィール写真に重ねるアクションが広がっています。自分も…と考えましたが、思い留まりました。引っかかるところがあったからです。

Facebookでこのようなブログがシェアされていました。ここに書かれていることは、その「引っかかるところ」の一つだと思いました。

"『Facebook』プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと"

ここに書かれているような、トリコロールの背景や、そもそもなぜISがテロを起こすのかを考えると、このアクションが世界にどんな影響を与えているのかは無視できないのです。
アクションが意図することは「パリ市民の安全と平和を願う」なのは分かっています。しかし、対立するISの人たちの目にはどう映るのでしょうか。世界中でフランス国旗を掲げることが「私たちはフランスの味方です」という意味に取られないとも限りません。ISはどんどん孤立しています。「周りにはトリコロールを振るような敵しかいない」と思っているかもしれません。捨て身で戦う覚悟のある「無敵の人」たちにとって、このアクションが戦意を向上させる可能性すらあるように思います。
世界にはISに賛同する人もいることを忘れてはならないでしょう。ISの「マインド」に賛同する人たちがいるのです。どんなにISに反撃しても、「マインド」の根絶は難しいことは分かっているのに、国レベルの解決策は「IS壊滅」だけなのです。新たな解決策はまだどこにもありません。
「マインド」が起こす戦争である限り、両者の「マインド」の理解がなければ負の連鎖は断ち切れません。今世界で起きているアクションは、被害者に対する「感情」の表明です。その奥で、どんな「マインド」が見え隠れしているのでしょうか。そして、テロリストたちはそれをどう感じるのでしょうか。

大きな戦争が起きないとも限らない状況にあります。そして、日本の立ち位置はつい数ヶ月前の安保法可決によって、ISの敵と見なされてもおかしくない状態になりました。私たちが学んできた過去の記憶とも様子の違う戦争が既に始まっているのかもしれません。誰がテロリストでもおかしくない世界は、他人を疑って信じることの出来ない世界です。一度こうなると、元の世界には簡単に戻せなくなりそうです。考えただけでも身の毛がよだちます。
例え戦争が起き、先進国の力で抑え込み、終焉を迎えても、いつまでも憎しみは残ります。何の解決にもならない。このことは戦争を経験しないと分からないことなのでしょうか?これだけ、過去の過ちから反戦を願う市民がいるにもかかわらず。

みんな戦争などしたくないのに、戦争が起きてしまう。長い人類の歴史に、戦争がなかった時代はないと言います。
しかし、そこから「ヒトは争う生き物である」とか「人間社会から戦争は無くならない」という結論を出してしまうことは、全く安易だと考えます。
歴史や過去の偉人の思想から学ぶべきことは沢山ありますが、そこから人間の真理が得られる訳ではないと思います。様々な偉人が出してきた結論は、正解ではありません。時代は常に変化し、同時にヒトの在り方も変わっているのですから。

教育現場のいわゆる「不良」たちとISは自分の中で重なる部分があります。「悪い」ことが本質ではなく、「悪者あつかい」されてしまっていることが本質です。
平和学のヨハン・ガルトゥングも言っています。「テロの悲惨さに対し、これまでアメリカやフランスが行ってきた空爆などはどう説明されるのか」と。我々は対立する世界の「一方」に知らないうちに加担している可能性を考えなければならないと思います。
生徒に対する教師の振る舞い方は、まさにここと繋がります。
岡本茂樹著「反省させると犯罪者になります(新潮新書)」の内容にも繋がります。
生徒が悪者になるかどうかは、教師の振る舞いに方によるところが大きいのです。問題行動を助長するもまた然り。それを知らずに、悪者を囲い込み、排除しようとする。このような世界を多くの人は望んでいるのでしょうか?

ISの人は攻撃的で野蛮であると思われがちです。しかし、本当は理論的で、理解力がある普通の人間であることを、ガルトゥング氏は知っています。実際に、ISの人と対話をしたからです。ガルトゥング氏は対話を繰り返し、様々な紛争問題を解決してきました。このような、紛争を解決する力は生まれもった特別な能力などてはなく、教育によって身につけられる力だと信じています。理論的にだけでなく、感覚的にも。
まずは、他人(生徒)を信じることだと思います。そして、話を聞いて、どうすればお互いの目的が達成されるかを一緒に考える。2つの矛盾する目的の達成のためにはこれまでにない、全く新しい提案が必要です。そこには、学び続ける意思と、クリエイティブな思考が必要なのです。これからの教師の必要な力はこのような視点からも考えられそうです。

個人レベルのミクロな事象から、世界規模のマクロな事象まで、起きている問題は多様であれ、本質は変わらないと思います。傷口に絆創膏を貼って、怪我を治すような、表面的で、即効性のある治療ではなく、時間はかかってもからだに備わっている自然治癒力を強くし、じっくりと根治していくように、地球と地球市民を強くしていく。

これからも「なぜ戦争が起きるのか」「ヒトとはどんな生き物なのか」を探求し、地球市民として必要な教育の在り方を模索し続けていきたいと考えています。思考停止しないように。


0 コメント

共感力

生徒の気持ちに共感できることは、良いことのようで、実は自分自身が苦しくなるというリスクがあります。
高い共感能力を持っている人にとって、現代の学校の教員として働くことはものすごく辛いことです。辛すぎます。
身動きが取れないのです。できることは、ただ黙っていることです。

見ていられない…ということがありました。脳ミソが熱くなってる感じがします。今年二回目。

こうやって人は見捨てられ、不良が生まれるのか。
という瞬間を見た気がします。
大人が大人でない。

いつこの時代が終わるのでしょうか。目の前で起きていることを見ていると、まだまだ先が長いようで、大変途方に暮れております。

辛抱強く、したたかに。しかし、精神がもつか?その戦いですね。はい。


0 コメント