暖色と寒色

中学校の美術の時間に「暖色は手前に、寒色は奥にあるように見える。」と習った事を記憶しております。青より赤の方が目に飛び込んでくる感じがする。

赤の隣に青の文字が書かれていても、目立たなくてスルーしてしまう可能性があるということです。

あ、ただそれだけです。


職場の人と色覚シュミレータを使って、遊びました。なるほど、そんな風に見えるのか。という発見。

色覚異常(今は色覚特性とも言います)は知っているけど、どのくらいの割合いて、その人たちはどんな風に見えているかはよく知らない人が多いです。


正常色覚の見え方

1型色覚の見え方(日本人の男性約22人に1人)


逆に、色覚がほかの人よりも、識別できる人もいるそうです。これも色覚特性ですね。この色覚特性はヒトの「多様性」と考えることができます。意思決定をする際に考え方は大切です。

たとえば、夫が色覚異常で、妻が子どもの産み分けをしたという話があります。これは、生まれてくる子どもが色覚異常を持っている可能性があることを知った上での決断です。

これには賛否あると思いますが、すべてはその夫婦が決断したことです。もしかしたら「多様性」を理解すると行動は変わったかも知れません。

音は去ってゆく

無機質な音は聞くのも苦痛です。眠気を誘います。

教員の研修会や会議だって寝ている人はいます。国会議員だって居眠りこいています。でも、眠くなってしまうのは仕方のないことです。ヒトのしくみがそうさせているのだから。それを怒ったって意味ないですね。本人が「大事」「必要」「面白い」などと心底思っていない限り無理と思った方がいい。

何を言ってるかさっぱりな先生の授業を受けている生徒も同じ思いなんだろうな。寝ている子はとことん寝ます。これを、叩き起こしてもしょうがない。

今日はそれを体験しました。笑
大変勉強になりました。

文字情報や様々な視覚的情報と違って、音情報は「一瞬」で過ぎ去っていきます。ちょっとでも気を抜くと、音情報は欠けますね。
また、音情報は向こうからやってきます。こちらがそれを受け取る体勢ができていないと結局何も感じない。体勢は出来ていても、基本的には受動的でしょう。聴覚的な情報って受け身でも勝手に入って来るわけですね。

それに対して、文字や視覚的情報は向こうからはやってきません。こちらが能動的にならないと、情報は入ってきません。

こちらから話を始めた瞬間に子どもたちは「受動的」になります。それが嫌な生徒は、「能動的」に話を聞きません。それは最近になってやっとわかったことです。その「能動的」な姿勢を僕は尊重するようにしました。

必要があれば「能動的」に、必要なことをやるだろう。と信じています。むしろ、それが最も生徒のためなると考えています。
だから、こちらから文字や視覚的情報だけを用意して、その「能動的」なベクトルがこちらに向いてくれることを待っています。

『学び合い』マインドってそんな感じ。

今日は大変いい勉強をしたと思います。

2015/02/21・22 【日本生物教育学会】センター試験分析

問題毎の分析ではなく、今回のセンター試験の何が問題だったかを、批判を覚悟で厳しく書こうと思います。これは、自分への自戒も込めています。あらかじめご了承ください。

【前置き】
学習指導要領は日本の教育に課題意識をもって、未来の社会を見据え、しっかり「目的」を議論して作られたもの。もちろん、その時によって必要な教育は変わるから「常に議論し続けなければならないもの」と認識しています。
→教科書は学習指導要領に基づいて作られたテキストです。
→センター試験は教科書をもとに作られた問題です。

【問題点と改善策】
学習指導要領の重要性とその理解不足
① 学習指導要領が根本的に変わったことを多くの関係者が「ちゃんと」理解していない。
② 学習指導要領に則った教育をしなければならないことを「ちゃんと」理解してない人が多い。
③ 学習指導要領を読んでいない、どうでもいいと思っている人も一部にはいる。
④ 自分が受けてきた教育、自分がやってきた教育から抜け出せない人が多い。
改善策
学習指導要領は「上」から降りてきたものという認識が強い。「上」から降りてきたものを、自分たちで咀嚼する必要がある。
そのために、さまざまな人と対話・議論をする。自分なりに形にしてみる。生徒の将来を本気で考えた学びの確立。
現在、一部のメンバーはそれで動いています。これが、情報の集まる東京だけで終わってはいつまでも変わらない。地方も巻き込まなければ。

教科書のジレンマ
① 教科書会社は「売れる」教科書をつくろうとする。
② 教科書が売れるかどうかは学校教育の質保障とは別の次元の話である。「売れる」教科書=「良い」教科書とは限らない。それは、いままでの教科書に近い方が教員は使いやすいから。
③  しかし、教科書を「売る」ことは会社にとっては死活問題である。結局、保守的な会社は従来型を引きずった教科書をつくってしまう。
改善策
教科書の改善。内容の精選。旧課程から引きずっているものは特に。それを見て大学入試センターが問題をつくる。
作問者は専門分野を持つ大学教員。大学入学者に求める力の共通理解はあるか。

うれしくないフィードバック
① センター試験の結果からさらに現場教員、教科書会社、受験業界…etc が対策を考える。(僕としては)うれしくないフィードバック。
生物を「ちゃんと」理解した(させた)子たち(教員)が「自分のやってきたことは間違いだった」とならないために。
知識・暗記重視で勉強してきた(させてきた)子たち(教員)が「やっぱりこれでいいんだ」となり、大切なことに気づかぬままにならないために。
→うれしくないフィードバックでは一向に学びの受験体質は変わらず。
→大学は受験テクニックで勉強してきたものを求めていない。大人になっても学び続けられるような「学びのあり方」をもっと考えていかなければ。

起こりがちが対立構造
本当に変わらねばという意識があるなら、問題点の指摘だけではなく、より建設的意見・提案を。
対峙してしまうとお互い引けなくなるのが常。
「こんなセンターやっていたら、ろくな大学生来ないぞ」というメッセージ
「あ、変えなきゃいけない」と思わせるメッセージ
「具体的にこうすれば良くなる」など相手を助けるメッセージ
の発信。
対立ではマシにはなるにしても、根本は変わらない。したたかに。

なんて、自分は大学受験の指導を全くしていないので、受験指導をされている方々のご苦労を知らずに申し上げました。
気に障ったら大変申し訳ありません。

これでいいのだ

バカボンのパパの「これでいいのだ」は偉大な言葉だなぁとしみじみ思います。

自分のやっていることと言えば、「これじゃダメだ」「ここはこうしないと」→「これでいいんだ」にする作業

すごく不安な気持ちでいっぱいの人が「そうか、自分はこれでいいんだ」と思えた瞬間に、安心感を得られるようになる。

「これでいいんだ」という気付き=安心感
→次のステップ

「安心感」は本当に大切な要素だと思います。安心感があって初めて「何かしよう!」という気持ちになれる。

逆に「これじゃダメだ」が続くと、不安になります。逃げ場のない閉じた社会だと、この不安から逃げられない。「逃げてもいいんだ」という気付きが不安を解消してくれるかもしれません。


みんなが幸せな社会ってどんな社会?

ある生徒は「将来はいいお嫁さんになる」と堂々と言ってくれます。その子は理想の旦那像まで語ってくれます。前までの自分だったら、「世の中そんなに甘くない。もう少し色々考えなさい」って言っていたかもしれません。

今は「いい旦那さんが見つかるといいね〜」なんて言って楽しく話ができます。この子はきっと幸せな家庭で育ったんだろうなと想像します。理想のモデルが身近にあるわけですね。

西川さんに幸せについて聞くと、「家族と過ごすことが一番幸せだ」と堂々と言ってくれます。とっても家族を大切にしています。そして、それを徹底しているように見えます。僕が指輪をしていないのを見ると、「早く結婚しなさい」と言われます笑

もちろん、人によって幸せは異なりますが、いろんな幸福論がある中でここまで徹底的だとわかりやすい。

「みんなが幸せな社会」の「幸せ」に、上の話を代入すると


「みんなが幸せな社会」=「みんなが家族とより多くの時間を過ごせる社会」


ですかね。もちろん、やりたいことをとことんやるもの幸せ(僕も今はこっちだ…)だけど、なんと言っても、「幸せな家庭で育った子は幸せ」なんじゃないかな。

教員の仕事は忙しい。毎日夜遅く、さらに土日を潰してまで働くのが当たり前では、家族が悲しい思いをする。子どももそれを見て育つ。それが普通になってしまってはいつまでも変わらない。

そうならないために、教員はとにかく仕事を減らす。うまいこと減らす。なんて言ったら怒られますかね。幸せな社会をつくるなら、今すぐ必要なことだと僕は思いますが。僕が「教育をもっとゆるく」と言っている所以です。

「損」か「得」か

 大体の人は損得勘定で動きます。損得勘定というのは「損」か「得」かを計算することを言います。

「法律を破ると警察に捕まって、罰金か刑務所に入れられてしまうから自分にとって損だ。だから、法律は守る。」
と言うのと同じように
「授業を沢山休んでしまうと、単位を落とすから自分にとって損。だから、学校は休まないで出席しないと。」
です。これをある人は損なことになるギリギリまで気付かない。ギリギリを通り越して損な状況になってから気付く人もいます。それでも気付かない人もいる。
今上げた例は「ルール」によって線引きされた中での損得です。ルールを破ると罰則があります。
では、次はどうですか?
「バイトで1分でも遅刻すると、30分間給料でないから損。遅刻ばかりしたらクビになるからもっと損。だから、バイトは遅刻しない。」
これは、「お金」がからむ損得勘定ですね。お金がないと生きていけないのでこれは死活問題です。
ではこれは?
「朝、学校を遅刻しても、授業に間に合えば良いから損なことはない。だから、遅刻はしてもいい。」
おそらく、学校の「ルール」としては遅刻は認められないですが、だからといって自分へのデメリットはあまり感じられない。「先生に指導される」というデメリットがあるかもしれませんが、指導も一定の効果しかない。「お金」もからんでいない。
遅刻をしてしまう人がなぜ減らないのかを、担任になってからずっと考えてきました。
僕が言えることは「遅刻をする人は多くの他者からの信頼を失う」ということです。これを、「損」ととらえることができるか。
遅刻が多い生徒に「大学の推薦書を書いて欲しい」と言われた時、教員はどう思うか。「推薦書なんてかけないよ」と思うでしょう。
遅刻が多い生徒に「応援団をやりたいんです」と言われた時、教員はどう思うか。「そんな生徒に任せられない」と思うでしょう。
遅刻が多い生徒に「明日からは遅刻しません」と言われた時、教員はどう思うか。「どうせまた遅刻する」と思うでしょう。
これは、「人の信頼」がからむ損得です。実は、生きていくのに「人の信頼」が一番大きな損得を生みます。

遅刻をすることは「損」です。信頼がどんどん失われます。人とのつながりが薄くなっていきます。
人とつながることは「得」です。助けてほしいときに助けてくれる。安心が生まれる。
これは、これからの人生に必ずついてまわる話です。人とのつながりは常に信頼から生まれます。
何が「損」で何が「得」か。そこにつきます。

授業と休み時間

 休み時間はあんなに元気でイキイキとしている生徒が、授業になると死んだ魚の目をしている。「勉強が嫌いな子たちだから仕方がない」と思うかもしれませんが、もう少し問題の本質を考えようと思います。

 おかしな話かもしれませんが、授業をすることで「学ぶ自由」が奪われている気がします。

僕の授業では冒頭で

「今日の目的は教科書の○○~○○ページを理解することです。あとはみんなに任せます。たったの2ページです。みんなが目的を達成できるように頑張ってください」と語ります。

それだけで生徒が動き出す。普段授業中はほとんど寝てしまう子も、起きてたりします。これってすごいことだと思いませんか?

「なんで、こんなに勉強するの?」って思わず生徒たちに問いかけてしまうほどです。

生徒を信じて任せれば、自分から学ぼうとします。もちろん時間はかかりますが、それを辛抱強く待つ。関係のないおしゃべりをしてしまう子も、遊んでしまう子も、きっと勉強しなければいけないと気付く時が来ると信じます。もちろん、そのことも、しっかり生徒に伝えます。

「休み時間と授業のメリハリをつけろ」とはよく言われる話ですが、僕の授業は「休み時間のおしゃべりの内容がただ学習内容に変わるだけ」だと思っています。そうすれば、もっと学ぶことが楽しくなる。

 

だから、生徒をまずは解放しようと思うわけです。大人の力で、目の前の子どもを力づくで何とかしようなんて、到底無理な話です。すべては、その子たちが10年後、20年後どうなっているかだと思います。

どんな人でも認める覚悟

とにかく一度崩してみる。崩した上で、目的を提示し、やるかやらないかはみんなに任せる。でも、全員目的達成を目指すことは強く願う。これが僕のやり方です。


みんな本当に良くやります。やった人は多分「学ぶってこういうことなのかぁ!」という新たな発見ができたと思います。間違いなく、この経験が生きていくためには必要だと思います。

どんなに無駄話をしていても、その人を責めたりしません。「人として」その人を認めます。でも、目的の達成を目指しているかどうかは真剣に求めます。
教室全体にしか語りません。
いつか、その人のどこからか「学ぶ意志」が湧いてきて、「勝手に学ぶ」ことを待ち続けます。
どんな人でも認める覚悟はあります。




学校が嫌で嫌でしょうがない人へ①

 高校に行くのが嫌で嫌でしょうがない人は、まずその原因を探ってみましょう。

① とにかく勉強が嫌い、授業がつらい。
② 勉強しているのにできなくてつらい。
③ とにかく学校という場所が嫌い。
④ バイトで疲れているのに学校で勉強なんて無理。
⑤ とにかく遊びたい、寝ていたい、何もしたくない。
⑥ 将来が見えず絶望を感じる。
⑦ 先生という人種が嫌い。
人間関係が嫌だ、友達がいない。

などなど。これは単に僕が想像して挙げてみただけです。本当はもっといろんな原因が人それぞれあると思います。この全てに一つずつ答えるのはあまり意味がありません。
とにかく大切にしたいのは授業で意識させている「目的」です。
「なぜ高校に通わなければいけないの?」これは、今の時代になってもっともしっかり考えなきゃいけない。なぜかと言うと、みんなスマホを持っているからです。先生が教えてくれる事は全部スマホが教えてくれます。学校に行かなくても、勉強できるのです。これでは学校に行く目的がわからなくなるでしょう。
 もっと言ってしまおう。高校を卒業すると事ってそんなに価値のあることなんですか?上に挙げた「学校が嫌で嫌でしょうがない原因」を必死に我慢してまで高卒の資格を取る必要はありますか?
先生に欠課時数を管理してもらって、遅刻したら直すように指導されて、授業で勉強しないと勉強をするように強制させられて…結局全て「やらされている」ことですね。極論は「進級・卒業した」ではなくて「進級・卒業させられた」ということになるでしょう。そんな人が、学校に来る意味はあるのですか?もし、卒業したとして、もう先生はいません。面倒を見てくれる人はいないのです。学校で何を得たのか。胸を張って説明できますか?
高卒の資格を持っていれば就職に有利ですか?世の中には中卒で働いて頑張っている人だっています。大学や専門学校に行きたい人は「高卒認定試験」というものがあります。学校に通うのが嫌な人にとってハードルは低いはずです。そこで高卒認定をもらえば、大学や専門学校にだっていけます。
ますます学校に行く目的がわからなくなったでしょう。もう一度聞きます。

なぜ高校にきているのですか?

まずは悩んでください。今まで考えもしなかったのであれば、考えるきっかけになればと思います。今日はこの辺で。

負の連鎖を断ち切る

 大人が恐怖で子どもを動かしているとすれば、その子どもは恐怖を与えないと動かなくなります。そして、その子どもの意志は殺されます。
 同じように、大人が知識を子どもに与えると、子どもは自分から学ばなくなります。やっぱり、意志は殺されます。
 大人が成功体験を与えようと頑張れば頑張るほど、子どもの失敗が減り、原体験から得られる学びは減ります。
 教育を真剣に考えるときに気をつけたいのは、「子どもを自分の思うように育てたい」という潜在意識です。でも、はっきり言って無理です。「自分が受けてきた教育」を信じたいのはわかります。しかし、これでは負の連鎖しか生みません。今必要な教育は、昔とは違う。

とにかく発信してみる。

 これまでFBやブログなどで発信してきましたが、日々積み上げてきたものをもっとオープンにしようと思いましてこのHPを立ち上げました。学校で関わっている人たちだけでなく、もっと広く多様な人へ向けて発信できればと思います。

 このブログでは、日々考えたこと、感じたとこをアップしていこうと思います。自分はかなり優柔不断なので、ブログのタイトル「日々、ブレています。」にある通り、中々確信をもって動くことができません。でも、未来を見据えて、今できる最善のことを求めたいという気持ちはあります。ここで発信していくことも、今できる最善の一つかもしれません。

 とにかく発信してみる。これは、ある人に強く勧められました。はじめは授業で使えるようなHPを目指し作成に取りかかりましたが途中で断念。「形」にこだわってしまう性格が、長続きさせません。今度こそはそれを打開したいと思っています。汚い板書でも、メモでも、写真でも、とにかく発信したいと思います。

 このブログを見た人が、より良く生きるための何かしらのヒントを得られれば幸いです。