地方創生における学校の役割

シンポジウム「地方創生 大学の役割と可能性」の記事はメモが多かったので感想だけもう一度載せます。


   僕は「なぜローカル経済から日本は甦るのか」冨山和彦著(PHP新書)を読んでから、地方創生にも意識を持てるようになりました(僕の田舎も同じことが言えるはずなのに…今更です)。特に「今後日本は人類が経験したことのない人手不足に陥る」という言葉に大変な焦りを感じました。どうなってしまうのだろう…。そこから、今日のシンポジウムの参加に至りました。

 高校の教員目線での感想です。このシンポジウムは「大学に何ができるか」に主眼を置いているのですが、高校や中学でも同じことが言えると思います。これから必要なのは「学校や大学がもっと地域と密接な関係を持ち、地域の人は教育活動の支援を、学生は地域貢献をする。」ということです。学校や大学は学生(ここでは児童、生徒、大学生)にそのような活動をするきっかけや活動しやすい環境を提供する組織として存在していく。その中で、学生たちが体験的に今の社会に問題意識を持つようになる。

 大学の位置付けはその課題を「学問」として取り込むこと。どなたかがおっしゃっていた「地域の研究資源を自らの研究課題に取り入れる」ということでしょう。「研究も盛んにし、地域にも貢献できる大学」これは、教員の活動だけではどうにもできないものです。問題意識をもった学生が立ち上がらなければ。

 結局は、今の日本がもつ教育の課題につながります。「考える力」や「主体的な学び」、学生が必要とする力を現場で育む。学びは「課題の発見」から始まる。「教育の力」苫野一徳著(講談社現代新書)では学びの「個別化」「協働化」に加え「プロジェクト化」を提唱しています。プロジェクトを通じて、個々人に必要な力も、他者との折り合いのつけ方も学ぶことができる。そこに、地域の力が加われば最高ですね。現場での体験の価値をもっと知ってもらうべきかもしれません。

 地域の活性化には法政大の学長が言っていた「若者、よそ者、ばか者」が必要です(ばか者は「常識にとらわれない変わり者」のことです)。成功しているところは、この三者が揃っているそうです。あとは地域にそれを受け入れる体制があるかどうかですね。

  今回のシンポジウムは実例として各大学での取り組みと、学生の活動を沢山見ることが出来ました。既に動き出している学生が多くいることに驚きです。これが「敷居の高いもの」では、中々動き出せませんが、紹介していただいたものは決してそうではありませんでした。学生がこれまでの常識にとらわれずに、既存のものから新しい価値を見出している。ものが溢れ、便利な都会から、何もない不便な田舎に新しい価値を見出す。そうやって若者の価値観もかなり多様化してくるでしょうね。

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公開シンポジウム「地方創生 大学の役割と可能性」

公開シンポジウム「地方創生 大学の役割と可能性」

主催:認定NPO法人ふるさと回帰支援センター


極点社会の到来

高校生の大学選び

地元の大学?首都圏の大学?


【あいさつ】

850近い自治体が消滅するかもしれない

2008年リーマンショックで若者が

2011.3.11では子育て世代の若い女性が

田舎暮らしを始めた

 

若者の田舎暮らしが増えてきている

Uターンの人たちが増え始めている

 


ーーー第1部 大学生によるグループディスカッションーーー

【映像】

中大4年 北海道出身 北海道庁就職

法大3年 島根県出身

岩手県立大学大学院 岩手県出身

東海大4年 千葉県出身

4名によるディスカッション

 

首都圏の大学に進学した理由

東京の大学に行けば、いろんな人に会える。いろんなところに行ける

岩手の大学はどうか?

東北の人が多い

 

大学に期待すること

地域に行けること。大学を中間に挟むと地域に入りやすい

地域と社会人を結ぶ役割

地域は信頼関係が必要。4年間でやろうと思っても、中々うまくいかない。大学が橋渡しになるのでは

 

地方創生における大学の役割

地方を知る機会がない。大学がもっと地方とつながること。情報がたりない。

大学と企業、大学と大学でつながってほしい

首都圏の学生は起業を考えている人が多い気がする 


大学は自由である

やる気のある学生もない学生も巻き込んで行きたい

大学側も学生に積極的であってほしい

大学はいろんなことを学べるの場だと思う

自由に学べる場

フォローが必要では


ーーー第1部 終了ーーー

 

【第1部の感想】

 4名の学生のディスカッション。根っこには「大学は就職するための手段」であるという考えが存在しているように感じます。これは仕方のないことですけどね。

 今の大学ありきの議論は大学のあり方に大きな変化をもたらすのだろうか…。大学は自由であり、様々な経験の場である。それは現状で間違いありません。しかし、大学でなくても中学や高校で出来ないでしょうか。

 地域をなんとかしよう。地方をなんとかしよう。その思いを持っている人は増えているのかもしれませんが、今の小中高レベルでももっとこの議論はされてもいいのかもしれない。そうでないと、間に合わないのでは?

「大学側も学生に積極的であってほしい」…問題意識を持っている学生に対して、何か支援するものがあっても良いと思います。大学が学生側に働きかける。その動きも大切かもしれません。しかし、大学だけを頼りにしなくても、今ならもっと様々なコミュニティとつながれると思います。ツールはいくらでもある。必要と感じた人がどんどん動き出せば、2割の人が共感して動きだし、その2割がどちらでもいい6割を引っ張る。基本的にはボトムアップ。何せ問題に直面するのは今の若者ですから。問題意識の共有は必要かもしれません。大学は一つの「環境」であってほしいです。 



ーーー第2部 パネルディスカッションーーー

大学進学による人口移動

流入超過の都道府県

東京 愛知 京都 大阪 福岡 宮城 神奈川 石川 滋賀 岡山

それ以外は流出超過


法大学長 田中優子氏

様々な人がいることが大切

その地域でずっと生活するひと、Uターンの人、Iターンの人などがいると地域が活性化する。

よそ者、若者、馬鹿者

東京で「常識にとらわれない人」を育成し、地方に返したい。

 

名古屋学院大学長 木船久雄氏

大学同士が学生を取り合う現状

大学だけで問題が解決できるとは思っていない

どういう高校生が残り、どういう高校生が出て行くか

同じ県内でも、名古屋に集中する

 

東海大学学長 山田清志氏

平塚キャンパス

半分以上が神奈川、東京の学生

付属高校でも地方キャンパスへの進学を進めるが中々進まない


岩手県立大学長 中村慶久氏

一旦出て行った子どもが戻りやすい地域づくり

県にとらわれない

県立大は地方に貢献しなければならない

建学17年目だが、状況は変わらない

大学を立てればいいという問題ではない

 

慶應義塾大学教授 片山善博氏

都会で勉強したあとUターン 

大学進学による人口移動について、県単位だけでなく、プロックごとにみないと。

 

石川県がなぜ流入超過なのか。面白い。ここにヒントが隠されているのでは?

石川県と岡山県は有楽町にある回帰センターにブースを置いている。

県が移住に前向きである 

移住の人気県になれるかどうか

 

地方創生の国の予算

7225億円

内文科省994億円

大学関連400億円

 

青森大学理事長 岡島成行氏

青森県の進学率低い

経済的に厳しいという家庭

今後の展望

薬学部がある大学は少ない

道南、秋田、青森に薬剤師の供給

 

県同士で学生同士を取り合ってもしょうがない

 

地方創生の人材が必要

教育や研究に重点を置かなければならない

地方創生の予算もよく見ないと怪しい

 

現場のニーズと合わない可能性がある。

国はニーズに合わないミスマッチな要求をしてくる

ありがたさがいまひとつ

率直な声をあげていかなければ

 

教育・研究の充実は長期計画

政府は短期的ではなく、長期的に事業を見てもらいたい

 

【映像】

青森大学の学生へインタビュー

青森大学の学生:東京に行きたいとは思わない


地元に残ろうと思っている人が多い

 

岩手県立大の学生も最近は残ろうとする人が増えている

東京に昔の憧れとは違った怖さを感じている

看護系、首都圏は待遇がいい。

首都圏が受験生確保に先手をうっているため、首都圏に取られてしまう


【映像】

NPO法人 いわてGINGA-NET

学生ボランティアから誕生

文科省の被災地支援

 

岩手県立大 復興girls&boys

学生にプロジェクトを組ませ、大学がサポートするという事業から誕生


活動費は大学より支援

東京への交通費などは?

財源を捻出しにくい

 

ふるさと納税

大学やNPOではなく、自治体にお金が渡ってしまう。見返り競争になってしまっている。

大学やNPOなどにお金が渡るべき

 

イニシャルコストを自治体が支援してくれるのはありがたい

 

名古屋学院大

NPOやプロジェクトは

学生の教育という位置づけ

教育プログラムとして

 

大学COC事業

地(知)の拠点整備事業

課題解決に資する様々な人材や情報・技術が集まる、地域コミュニティの中核的存在としての大学の機能強化を図ること。

 

【映像】

名古屋学院大の様子

大学生がつくるカフェ

カフェ経営のサークル→まちづくりを学ぶ場

 

商店街組合との連携

孤独死が多い

付き合いが薄い

 

家にこもりがちな老人をなんとかしたい

「あったかサロン」

自治副会長との連携

 

法政大

大学生に求める

課題解決能力

プロジェクトをたくさん作っている

学生もイキイキとしている

 

座学、書物のような出来上がった知識ではなく

今の社会の問題、課題を見つけるところから


必ず現地に行かせる。

帰ってくると目が輝いている

それから、自分の発見した課題に関する本を読むようになったりする

 

地元にあるものを活動して体験

そこから理論へ結びつける

 

【映像】

東海大学

テレビ会議でプロジェクトの成果発表

東海大学阿蘇キャンパス 援農体験

現場経験をもっと積んだ方がいい

湘南キャンパスチャレンジセンター(2006年設立)

40あるプロジェクト

2000人が参加

援農プロジェクト

除雪プロジェクト

科学教室プロジェクトなど

 

自分自身にできることを探せる

 

座学だけでは成長は難しい

社会人基礎力、学習力

 

大学ー大学の連携は可能か

大学の中でやることで手一杯

都市型大学と地方の大学がどう連携をとるか

大学内の問題でもある。

他大学の学部同士でつながる

 

自前のネットワークで実地で学ぶことを多様化することに東海大学は成功している

 

【映像】

学生インタビュー

北海道出身

地元だと学びたいものが学べないから東京にでてきた

地元に戻るのも一つ

 

宮城県出身

東京に出てきて感じたこと

人の違いを見ることができた

新しい可能性を感じるとができた

地元の良さを知ることができた

地元に貢献したい

 

富山県出身

仕事のやりがいは自分で見つけていく

地元の就職活動の現状、就職口が少ないが志願者も少ない


沖縄県出身

沖縄は親族とのつながりも多い

出産を考えると親が近くにいた方がいい

 

法政大の入試制度まちづくりチャレンジ入試

自治体が学生を推薦

海外の大学とはたくさん提携しているのに、日本ではほとんどない

 

岩手県立大

IT企業を集積するという事業、イノベーションセンター

 

なぜ、海外との連携が多いのか

海外に何を期待しているか

留学生を送る、外国語の習得が主

 

新しい視点

自治体連携

グローバル人材も重要だが

ローカル人材も重要

 

大学の多様性

 

雇用と地方創生の問題

 

【映像】

①法大のOB?

農家として生きて行くことを決意

きっかけは総務省の地域おこし協力隊

古民家再生

田植え

収穫

幸せを感じた

今も現地で活動を広げている

法大で学んだこと

教授も事務の人も現場へ出ることを後押ししてくれる


②多摩地域交流センター

地元の企業とタイアップ

化粧品開発の現場

地元の特産品

檜原村のヒノキで

 

学生:実践してみると、学問とは違っていることに気づいた

教授:大学は片足理論研究

もう片足自分の持っている力を共有する

若者の目線で地域をどうするかを考えていける

課題は?

モチベーションを高く維持することが難しい

企業との考え方の違い

企業と大学をつなぐコーディネーターが必要


大学が地域を知ってもらう努力

地方は特に 

 

地方は首都圏よりも起業する人が少ない。

チャレンジする人材、芽を育てる。

環境整備が必要

 

大学のガバナンス改革

 

教員 職員 地域 学生

学生…横とのつながり


木船

大学 学生 地域

COC

 

山田

大学がなんでもやってくれるのも問題

自治体が大学をどう使うかも考えていければ

 

中村

地方創生支援チーム設立

 

田中

スーパーグローバル大学

どこでもやっていける人材

海外だけではなく、ローカルでも生きていける

グローバルの能力も

ローカルの能力も同じ

 

片山

鳥取県で知事をやっていた

地域の知の拠点

質の高い、豊かな人材育成

これまでは地域との関わりがなかった

地域の課題の解決を研究対象にしてもらいたい

こう言った研究がメジャーになってもらいたい

ーーー第2部 終了ーーーー


【全体の感想】

 僕は「なぜローカル経済から日本は甦るのか」冨山和彦著(PHP新書)を読んでから、地方創生にも意識を持てるようになりました(僕の田舎も同じことが言えるはずなのに…今更です)。特に「今後日本は人類が経験したことのない人手不足に陥る」という言葉に大変な焦りを感じました。どうなってしまうのだろう…。そこから、今日のシンポジウムの参加に至りました。

 高校の教員目線での感想です。このシンポジウムは「大学に何ができるか」に主眼を置いているのですが、高校や中学でも同じことが言えると思います。これから必要なのは「学校や大学がもっと地域と密接な関係を持ち、地域の人は教育活動の支援を、学生は地域貢献をする。」ということです。学校や大学は学生(ここでは児童、生徒、大学生)にそのような活動をするきっかけや活動しやすい環境を提供する組織として存在していく。その中で、学生たちが体験的に今の社会に問題意識を持つようになる。

 大学の位置付けはその課題を「学問」として取り込むこと。どなたかがおっしゃっていた「地域の研究資源を自らの研究課題に取り入れる」ということでしょう。「研究も盛んにし、地域にも貢献できる大学」これは、教員の活動だけではどうにもできないものです。問題意識をもった学生が立ち上がらなければ。

 結局は、今の日本がもつ教育の課題につながります。「考える力」や「主体的な学び」、学生が必要とする力を現場で育む。学びは「課題の発見」から始まる。「教育の力」苫野一徳著(講談社現代新書)では学びの「個別化」「協働化」に加え「プロジェクト化」を提唱しています。プロジェクトを通じて、個々人に必要な力も、他者との折り合いのつけ方も学ぶことができる。そこに、地域の力が加われば最高ですね。現場での体験の価値をもっと知ってもらうべきかもしれません。

 地域の活性化には法政大の学長が言っていた「若者、よそ者、ばか者」が必要です(ばか者は「常識にとらわれない変わり者」のことです)。成功しているところは、この三者が揃っているそうです。あとは地域にそれを受け入れる体制があるかどうかですね。

  今回のシンポジウムは実例として各大学での取り組みと、学生の活動を沢山見ることが出来ました。既に動き出している学生が多くいることに驚きです。これが「敷居の高いもの」では、中々動き出せませんが、紹介していただいたものは決してそうではありませんでした。学生がこれまでの常識にとらわれずに、既存のものから新しい価値を見出している。ものが溢れ、便利な都会から、何もない不便な田舎に新しい価値を見出す。そうやって若者の価値観もかなり多様化してくるでしょうね。




 

「学び」と「点数」のジレンマ

ジレンマに襲われています。これは、自分の頭の中でのジレンマです。

今僕が考えていることは、「学ぶこと」の楽しさはどのように生み出されるのか。新しい知識を得ること、持っている知識を活用して何か新しいものを生み出すことの楽しさ。自分で体験している人はわかるかもしれませんが(逆に自覚がないかも?)、要は「楽しいから学ぶ」という内発的、自律的、主体的学びのイメージです。これは、「学び」の原点だと考えております。
しかし、テストの「点数」を取りに行くと、本来の「学び」は失われる気がしてなりません。
生徒は「点数を取ればいい」となってしまわないか。
授業中のノートやプリントの提出物も同じです。「提出すればいい」となってしまわないか。

徹底的に「点数」を求めるという教育も出来てしまうわけです。目標を「点数を取る」にすればいいわけですからね。こちらの方がより、目標が明確で、結果も分かりやすい。

ちなみに、「点数を取る」ことを個人に求めては、これまでの教育と変わりません。ここで言っているのは「全員が高得点をとる」こと。
ノートやプリントだったら「全員提出する」こと。

でも、テストの点数なんて「ちょーくだらないこと」と思っています。あの限られた時間の中で、詰め込んだ知識を爆発させる感じ。覚えることの苦手な自分には、本当に苦痛以外の何物でもない。
ノートやプリントもそれをやれば理解したことになるのか。ただの作業なのではないか。

僕のなかに本当の「学び」と「点数」のための勉強には壁が見えるのです。

『学び合い』の最大の目的は「一人も見捨てない」集団をつくること。そして、「一人も見捨てない」社会を目指すこと。その下で、学校での「学び」とはどうあるべきか。改めて考えています。

「幸せ」の押しつけ

「みんなが幸せな社会を目指そう」 
と言う言葉に暗に「みんな幸せになろう」という意味が含まれていないか。 

何を幸せと感じるかは人それぞれだし、そもそも幸せを求めるかどうかも押しつけられるものではありません。そんな価値を自分は押しつけていないだろうかと内省します。 
生きていくのに必死な人は「幸せかどうか」なんて言ってる場合ではないかもしれません。とにかく生きなきゃいけない。そのような人はもしかしたら「相互承認の感度」が低いかもしれない。でも、周りがそれを受け入れるだけの「相互承認の感度」を持っていればいいのです。
「相互承認の感度」が高い、低いを比べて「不平等」という言葉で片付けることは、実は厄介なことだと思いました。 「平等」という言葉は大切かもしれませんが、その裏に陥りやすい罠が隠されていると感じます。

全体として「相互承認の感度」が高い人が多い方が良いのかもしれませんが、社会のシステムがどんなに変わっても、必ず貧しさや生まれながらに不自由さを感じる人はいます。お金で解決出来るものだけじゃありませんし。そんな人でも、安心して生きていくためには、自分が安心し、認められるという原体験が大切。原体験を与えられるのが学校という場所だと認識しています。 
これは、同僚であり、先生よりも長い時間を共にするクラスメイトやその他の横のつながりで体験できることです。その体験のチャンスを奪わないために、教員は余計なことはするべきじゃないと思うのです。
こちらの見取りが正しいとも限らない中で、仲の良い子を一緒にさせるとか仲の悪い子を離すとか、生徒を操作することは果たしてプラスなのか。教員が手をかければかけるほどチャンスは失われます。


一部分しか見ることはできない

 

  僕ら教員は、生徒と接している時しか生徒を見ることは出来ません。それ以外で何をしているかなど分かるはずがありません。 
  徹底管理教育をすると子どもたちが変わるような錯覚をしてしまう。確かに変わりますね。「先生の前」だけ。そんな例がたくさんあります。 

 例えば遅刻。 遅刻癖が治らない子がいる。何回か遅刻すると、指導して反省させる。「明日から遅刻しません」という誓いを立てる。 
翌日…遅刻しなかった。 
次の日…遅刻した。 

 何で治らないのだろう。では、ある期間だけ、遅刻したらその都度指導をするようにしよう。 
ある期間は遅刻の数が減った。 
ある期間が終わった…途端に再び遅刻が増えた。 

  先生はどこまで子どもたちを管理できるのか。こんなこと思い始めたらキリがありません。 
  管理は極力しない方が良いと考えます。 

  クラスの掃除当番を徹底管理する場合、管理している間は何とか掃除をさせることが出来るかもしれませんが、管理をやめると途端にサボりだします。 
  サボるからやっぱり管理が必要だ。でも、管理しきれないことだってある。すると、ちゃんとやっている生徒が「◯◯がサボった。不公平だ」と言い出す。「先生が言わないから」となる。 
このようになってしまう原因は全て教員が作っていると言えませんか? 

  僕はクラスの掃除当番やゴミ捨ては、一切管理しません。「後はよろしく」と任せてしまいます。 
そんなことしたらサボる人がいるのでは? 
と言われそうです。実態は分かりませんが、今のところ不満の声はありません。もしかしたらサボっている子がいるかもしれない。でも、僕は信じ続けます。 
もし、ある生徒に「先生◯◯がサボりました」と言われたら。 
「それは酷いね。今度厳しく言ってやり直しさせるから」 
とは言いません。 
「そうか。それって、君たちで解決できるかな?」 
と言います。 

私たちの生徒に対する評価は、生徒と接しているときのほんの「一部分」にすぎません。 
先生に反発する生徒は「先生」がいるから反発するのかもしれません。 
先生がそれを抑えたら、その感情はどこに逃げるのでしょうか。家庭でしょうか。これでもし、「先生ー保護者」がタッグを組んだら…
あの閉じた空間の中で。恐ろしいです。 


「自分」と「相手」が「違う」ことを知る

 3月9日、日比谷図書館にて、「きくってなんだろう?」というイベントに参加してまいりました。参加者約20名が円になって座り、会が進行していきます。なんとも言えぬまったり感。その中に様々な価値が見え隠れしてとても面白い会でした。

 

  僕にとっての「きく」ということはどういうことか。

  そもそも、僕は話すのが苦手で、多くの場合「聞き役」のことが多いです。それは、別に嫌な訳ではなく、その人のことを知ることができるという意味で大変面白いことだと思っています。

自分は「人」が好きなのかもしれません。

相手に興味があるから色々と聞きたいことが出てくるし、同時に自分もさらけ出してしまう。

 

逆に、話をしようと思うと、「相手にわかりやすいように」とか「おもしろく」とかすごく意識してしまうため、結果うまく話すことができない。「下手なこと言ってつっこまれたらやだな」と思っている自分がいます。どんな人が相手でも、おそらく「きく」ことはできます。相手を引き出すという意識などではなく、相手がリラックスしてありのままで接してもらいたいと思っているのです。

 

 非常に印象的だったのは、「共感は実は危ういことかもしれない」ということ。会話をする中で「相手のことを共感する瞬間」とは、結局自分の写しを感じているに過ぎない。

共感している相手の考えていることは、実は自分の思っているものとは違うのかもしれない。

それは、最近流行っている、同じドレスが「金と白」「黒と青」など、見る人によって色覚の感じ方が異なるのと同じ。

その人の見ている世界は誰一人として同じではない。

 

はじめは自分の写しを見ているのだけれど聴けば聴くほど共感しない部分が見えてきて、それが「自分との違い」になっていく。徐々に目の前の人が自分ではない人間になっていく。そこで初めて目の前の人が自分ではないことを知る。

ちょっと哲学チックですが。この感覚は、相手を理解する上で大切な気がします。

「相手が自分とは違うことを知る」それが「きく」事なのかもしれませんね。

 

  また、共感は人に快楽を与えているかもしれません。みんな共感を求めて人とつながる。共感は人をまとめる働きもある。それが大きくなった時、共感できない人が「異質」になってしまう。これも共感の危うさかな。

 

参加者のみなさんそれぞれの「きく」にもバリエーションがある。

「30㎝後ろから聞いている」

「相手の話が活字に置き換わる」

「そもそも、ここにいる人ほど「きく」事に興味がない」

などなど。

ある人は「テーマが「人ってみんな違う」に変わった。それが面白い。」と言ってました。

 

  全く分からない、共感できないという集団が上手くやっていく事の大切さ。

「この人は全く僕と違う。共感する部分が一つもない。それがいいよね。」

という感覚。

 

違うことが分かる事は大切だなと感じた日でした。

ICTの現状とこの先

 僕はコンピューターにはあまり詳しくありません。しかし、現代のICTには付いていかなければと思っています。この先、間違いなく社会の様々なものの「在り方」が変わってくるはずです。それを妄想すると、今の教育の現状はかなり遅れていると言わざるを得ないと思います。

 クラウドのサービスもかなり多様になっており、これらをどの場面でどう使うか「自分で」選んで活用する。こんなに、いろいろなツールがあって、何を使ったら自分のやり方にピッタリ寄り添ってくれるか。僕は正直、今の時点でワクワクするのと同時に大変混乱しています。「え、こんなのもあるの?」「これとこれ便利だけど機能似てるし…どう使いわけたらいいかな」みたいな感じです。

 今更ですが、Google docs の存在を知りました。Microsoft Wordのようなものがクラウド上で使えるというもの。 URLで他の人と簡単にシェアできますし、同じ文書を編集できます。このようなサービスはGoogleだけにとどまりません。

 LINEやFBMessengerで友人と簡単にやり取りをし、YouTubeで音楽を聴き動画を見、iBookで本を読み、facebookで離れている知り合いの近況を知り、Skypeで会議をし、サイボウズLiveでスケジュールや記録のシェアをし、Dropboxでファイルを共有し、自分のホームページで情報発信をし、Google docsで文書の共有をし…まだまだありますね。本当にワクワクします。できることが無限にあるような。

 先日は、「Ingress」というゲームを紹介してもらいました。テレビでも取り上げられているほど、世間では知れ渡っているもののようですが…僕のアンテナには引っかからなかった…やはり遅れています。これがまた良くできていているんですよ。ゲームのあり方も変わってきていることに驚きました。


 世間一般はこのような現状である一方で、学校内でのICTのあり方は相変わらずです。生徒が授業の板書をスマホで撮ることをの是非を問う(?)なんて古すぎます。「何がいけないの?」です。学校で言われているICTを活用した授業は、結局視聴覚教材の延長に過ぎません。「これからの時代に必要な能力」を育むようなものとは程遠いです。

「大人が使いこなせないようなものは、子どもには使わせない」

「大人が使いこなせないようなものを、子どもが使いこなせるわけがない」

「大人だからまだうまく使えるけど、子どももたせたら危険だ」

という心理があるのでしょうか。

そんなの嘘です。子どもが大人よりも早く使い方を覚えるのは、今も昔も同じではありませんか?どんどん使わせたらいい。


 僕はファミコンをテレビへつなぐことで「映像」「音声」「電源」の入力や出力を覚えました。コントローラーが効かなくなったら、分解してその原因をつきとめ直しました。父がある日「これからは情報の時代だから」といってWindows95を買ってきました。最初はその中に入っているゲームばかりやっていましたが、ある時、インターネットの存在を知り、親に言って使えるようにしてもらいました。コンピューターのしくみはよく知りませんでしたが、使っていくうちに要領は得ていきました。携帯電話も、はじめは一家に一台でしたが、高校に入学する前に買ってもらい、その時に初めてEメールを使いました。感動しました。その時のケータイの選び方といえばカラー何色とか何和音とか画面の大きさとか…。さらに、写メールが登場し、どこでも写真が撮れるようになり、iアプリでアプリケーションのダウンロードが始まり…。あっという間に、スマホ・タブレットの時代です。これからどうなっていくかもわかりません。おそらく子どもにスマホ・タブレットをもたせたら、あっという間に大人を追い越すでしょう。でも、それでいいのではないですか?「子どもにはまだ早い」は大人のエゴ?自分が使えないから子どもにも使わせないのでは?


 相変わらずLINEが問題になっていますが、僕の頃のケータイメールが普及したときと議論のレベルは何も変わっていない。学校は「私たちは管理していました」「一人一人ちゃんと見てます」って。メディアの報道も相変わらず同じ。「私たちは報道しましたよ」「学校や家庭が良くないですよ」ってまたアリバイづくりか?根本的な解決のための議論が全くなされていない。

もっともっと先の未来を考えたら、全く別の視点が見えてくると思うのですが。とってもモドカシイ。次元を変えないと。


だんだん激しくなっていきそうなのでこの辺で(笑)

なぜ「変わること」を強制するのか

半年程前、進路学習の一環として、NPO法人企画で社会で活躍されている人をゲストでクラスにお招きし、話を聞くというイベントがありました。

僕のクラスは、青年海外協力隊でバヌアツに体育を教えにいっていた方でした。この方の話はとても印象に残っています。

バヌアツは近年都市化が進み、昔ながらの生活を送ってきた原住民の一部は、近代的な生活に憧れて都市部に集まってくるようです。しかし、上手くいかず、都市近郊にはスラム街ができているとのこと。
果たして、都市化してこれまでに無い便利な生活をすることが幸せな事なのか。これは、同じ道を歩んできている(現在進行形ですね)我々にも同じことが言えますね。

JICAでは現地に派遣される前に「直接教えることが仕事ではなく、向こうの人が自律してやっていけるようにサポートすることが仕事である」と研修で指導を受けるらしいです。

その方はバヌアツで現地の教員のサポートを任され、教員養成のための指導を行っていたのですが、バヌアツの人は仕事をよくサボり、仕事の途中で家に帰ってしまうこともあったと聞きます。中々日本人の言うことを聞いてくれなかったわけです。

話を聞けば、
「どうしてお前たちはこんなに成長する、変わることを強制するのか。僕たちは今まで変わらないことが幸せだったのに。今日生きて、また明日も変わらず生きていければ僕らは幸せなんだ」
と言ったそうです。

成長したいという欲望は人が本来持っているものと思っていた自分は、その話でまた違う世界を見ることが出来たと思いました。
どうでしょう、これも学校の教育とつながりませんか?私たちは生徒に暗黙に「成長しろ」と言っている。それは、確かに生徒に望むべきことかもしれません。しかし、人の成長は強制されるものではないでしょう。

手の内を見せる

 このホームページを見てくれている生徒がいることを知りました。しかも全部読んだと。驚きです。

「おもしろいからまた何か書いてね」って。読んでくれる人がいると嬉しいし、よりモチベーションが上がります。


 このホームページは私にとって一つのチャレンジです。教育をもっとオープンに。手の内を見せないという教員の基本的な仕事観を自分自身はどこまで変えることができるのか。生徒が見ても、一般の人が見ても何の違和感もないオープンな場所。それは、より沢山の人に見てもらうことで磨きがかかると思っています。さらけ出すことは武器を捨てることなのかもしれません。自分はこんなことを考えているよ、だから大丈夫だよ、安心してね。そして、あなたを信じていますよ。というメッセージが暗にに放たれているのかなと思います。

 これもすべて『学び合い』の考え方です。

 子どもたちは有能なんです。こちらが弱いところを見せれば支えてくれる。任せれば失敗しながらどんどん学んでいくんです。必要があれば、必要な人とつながれるんです。それを信じて見守るのが教員。大人。そこに手を出してしまったら、成長の芽を摘んでしまう結果になると思いませんか?

 様々な授業の方法やテクニックがありますが、それは生徒に使うのではなく、そのことが書かれた本を生徒に渡してしまえばいいんです。究極は『学び合い』の本を生徒に渡してしまう。読む人は読みます。「先生ってこんなこと考えて授業やっているのか」とか「先生もこんな悩みをもっているんだな」とか同じ人として共感してくれるかもしれません。

 逆に、先生らしくすればするほど、お互いが苦しくなる。上に立とうとすれば、弱いところを隠そうとし、結局弱いところが見えた時そこに漬け込む子が出てくる。考えてみれば、教員のように指導をする人が同僚である友達だったら嫌でしょう。なんで反発するのかと言えば、自分にとって嫌なことをされるからです。だったら、教員は指導なんてしなければいい。そのかわり、普段指導しているようなことが守れないことで、自分にとって損なことが起きることを体験して貰えばいい。周りと折り合いをつけながら、損得を知ればいい。教員はその価値を伝えればいい。それは教育の原点なのではないでしょうか。

 『学び合い』はそう言った意味で、授業だけでなく、生活指導、クラス運営、部活動運営などあらゆるものに使うことのできる考え方だと思います。大人の生き方を学校でも体験させたらいいんです。「子どもには発達段階がというものがある」「みんながみんなそんなことできない」という意見もあります。一人ひとりを見たらそうなのかもしれませんが、教員1人が40人の子ども一人ひとり面倒を見てそのように育てられるわけがありません。子ども集団を見くびってはいけない。とにかく本気で子ども信じる。手の内を見せることで暗にそれが感じてもらえたらいいですね。

TED 伊藤穣一

終盤のメモ
ーーーーーーーーー

必要な時に必要な人とつながることが出来る

Learning over Education
(教育より学び)

誰かに教わるのが教育
自分から求めるのが学び


教育は百科事典を暗記させることに似ている
ケータイですぐに調べられる時代なのに

どう学ぶかを学ぶべき
Compass over Map 
(地図より羅針盤をもて) 

計画や地図を作るのは高くつくわりにそれほど正確でも有益でもない 

目標だけきめて、具体的な道筋は決めないでおいた 

行き当たりばったりだけど達成できた 
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