シチズンシップに創造力は必要か

 選挙投票を促すポスターを見かけます。これは、「投票」という行為そのものを促しているのであって、「政治に参加しよう」とか「より良い社会について考えよう」みたいなメッセージとして受け止める人はいないのではないかと思います。

 私はアルバイトで塾の講師をしていたとき、小学生や中学生に向けて「では、鉛筆をもって」や「顔を上げて」と、一つ一つの行為を指示する授業テクニックを教わりました。「単指示」と言っていました。

 私にはどうも、有権者へ「投票しよう」と促すポスターが「単指示」に見えて仕方がありません。何も知らないけれどとにかく投票しろと。

「投票」は私たち一般市民が政治へ参加するために、法で守られた末端行為です。この、末端行為だけを促しても、根っこがなければ根本的な問題解決にはなりませんよね。投票の経験が政治へ関心を持つ切欠になるかもしれませんが、本当にこれでより良い社会へ向かうのかは疑問です。「投票率」を上げることが目的になってはいないか。かといって、「政治に関心を持とう!」なんて言っても何も響かないのかもしれません。


 この間、ONさんと「シチズンシップに創造力は必要か」という話にもなりました。(シチズンシップについてググったところ、シティズンシップ教育推進ネットというサイトがありました。)

 教育について議論をするとき、どうしても「産業界」が求める人材に目が移りがちです。国をつくる一般市民としてどのような力が必要かという話題が抜け落ちてしまいがちです。普段の何気ない生活に問題を見出す力(ここでは「問題創造力」と言うべきでしょうか)は、最終的に政治参加へ向かう力になると考えます。新しいものを生み出す力だけが創造力ではなく、自分たちがより良く生きていくために何が必要かを自分たちで考え、決定し、行動することも創造力と直結していると思います。

 「今は何も不自由ないから問題なし。」と思っていたらいつの間にか戦争が始まってしまったり

 「生活が苦しい。一体政府は何をしているんだ。」と愚痴だけこぼして自分は政治に無関心だったり

現代は「他責社会」です。このような状態をどう打破するか。


 学校という組織は社会のシステムをロールプレイできるようにできていると思います。「僕が総理大臣に直接文句を言えないように、みんなも校長に直接文句は言えない。学校に文句があるなら、正当な方法で文句を言えばいい。そのしくみは生徒手帳に書いてある。それが民主主義ではないのか。」と生徒に伝えています。大抵、面倒臭がります。「そんなことするなら、何もしないで従っていた方がマシ」なのでしょう。考えることが面倒臭い。学校はそんな若者を社会に送り出してきたのではなでしょうか。


 子どもたち一人ひとりの幸せな人生を考えるとき、国のあり方、国を構成する市民のあり方もまた考えなければならないのだと思います。

過去の自分への反論4

過去の自分 その4 教育学の理論が役に立たないと思っている。


→【反論】ここのところ自分のブログは「『学び合い』で自分がこんなに変わった!」みたいな、よくある怪しい通販とか布教活動みたいにとられそうな記事ですが、あながち間違っていないかも(笑)でも、本当だからしょうがないですよね。別に『学び合い』じゃなくてもいいと思います。私はたまたま『学び合い』だったというだけで。最近になって同じような気持ちをもっている方が結構周りいらっしゃることもわかりました。そのような人との出会いは大きいですね。人とつながるといいことが沢山あります。

 さて本題です。教育現場で理論と実践が乖離していることは良く知られていると思いますが(?)、そもそも、教育の理論なんてことを考えたこともありませんでした。でも、教育学にも長い歴史があって、沢山の研究の蓄積があるはずなのです。教員がその膨大な研究の蓄積を自分の中で解釈して実践に落としていくには時間が足りません。『学び合い』によってその膨大な研究から得られた理論の「いいとこどり」をさせてもらっていると私は思っています。哲学や理論は使えるものであるということがようやく分かるようになってきました。だから、いろいろな本を読むようになったし、発信もできるようになりました。ここ2、3年の話です。

 私は教育学部出身ですけど、恥ずかしながら教育の理論を良く知りませんでした。もともと、分子生物学を勉強したくて入った大学で、卒論も分子生物学の内容でした。もちろん教員免許を取るために、教職関係の単位は取りましたが、ほとんど中身を覚えていません。まともに授業を受けていなかった証拠ですね(笑)。私が卒論発表で見た理科教育の研究はどれも方法や実践についてで、
「こんな教材を作りました。実践でこの教材を使ったらこのような効果が現れました。」
「こんな意識調査アンケートしました。今の小学生にはこんな傾向があります。」
というものがほとんどでした。全くピンとこなかったことを覚えています。理科教育の人って何やってるの?って疑問に思いました。理論についての研究はあまりなされていなかったように思います。

 教員採用試験の教職教養もほとんど勉強しませんでした。今も教職教養の知識は無いに等しいです。今の学校に配属されてからは、とにかく自分の感覚だけで、授業、部活動、校務分掌などをがむしゃらにこなしてきました。自分の経験に基づいて「感覚的」にこなしてきました。それでも教員の仕事は何とかなってしまう。正に思考停止状態でした。教育の理論そのものを知らなかったし、役に立たない知識だと思っていたから学ぼうともしなかった。

 でも、それも壊すことができました。いきなり理論や哲学を学んだわけではありません。『学び合い』から徐々に広がり、深まっていったのです。自分でも驚きです。
 徐々に「「学ぶ」ってこういうことだったのか!」という自分の中での納得が生まれました。今自分自身「学ぶ」ことが楽しくて仕方がありません。いろいろ学びたい!でも時間がない!って状態。これって幸せなことです。
だから、生徒にもこれを伝えることができます。絶対に「勉強しろ」とは言いません。楽しくてやめられない「学び」を高校生に体験してもらいたいです。

 この間、授業見学に来てくださった先生に「勇気が湧いてきました!」と言っていただきました。私がこんな風に書くことで、いろいろ悩んでいる先生方の何かしら力になれればと思います。
最後に私が思う教員必読本を2冊紹介します。非常に大きな影響を受けた本です。
①苫野一徳「教育の力」(講談社現代新書)
②岡本茂樹「反省させると犯罪者になります」(新潮新書)
ぜひ読んでみてください。

過去の自分への反論3

過去の自分 その3 社会問題を理解していない。 
→【反論】根っこには「平和な世の中になって欲しい」という想いがずっとありました。しかし、やっていたことは校内の「大人しい子」を「やんちゃな子」から守るという大義のもと、やんちゃな子を抑えることでした。

『学び合い』を知ってから、「なぜこのような行動をとるのか?」を考えられるようになりました。さらに、そこから浮かび上がる家庭環境やこれまでの学校生活について考えられるようになりました。(だからと言って、家庭環境やこれまでの学校生活を詳しく把握しようとは思いません。知ったところで、その多くは変えられませんので。大切なのは、その子が「これからどう幸せに生きていくか」です。それは学校で学ぶ事だと思います。)
そして、問題の根本を知るためには、今の社会で起きている問題を理解しなければと思いました。

今の社会で何が問題なのか?教育はそこからスタートするものだと考えます。問題を理解せずして、良い教育は出来るのでしょうか?
今は、教育は未来の社会に直結していると思っています。生徒が卒業してどんな進路に就くかという話ではなく、この子たちがどんな社会をつくるかという話です。
生徒にも同じように語っています。「君たちが未来の社会をつくるんだ。」と。

今振り返れば、2、3年前の私の思考回路は自分の「過去」の経験の範囲から出ることができずにいました。
社会に出てまだ5年目ですが、今の学校に勤めることが出来て心底良かったと感じます。様々な生徒との出会いから社会に目を移すことが出来たのです。本当に感謝します。

「わかりやすい」ことの弊害

わかりやすい授業、わかりやすい文章、わかりやすい図…多くの先生が生徒のために努力して準備している。私もそれは意識します。

しかし、「わかりやすい」ことが100%良いこととは思いません。

 
その前に、「わかりやすい」も人それぞれですからね。それは大前提です。

わかりにくいものを自分なりに紐解く経験をしていかなければ、わかりにくいことに出会った時に、そこを避けて通るようにならないか。

一緒に帰った同僚のS先生と電車の中で
地方統一選挙の話になり、
「市議会議員選とか候補者もいっぱいいるし、主張も色々でわけわからなくなるよね」と。
そこで思い出したのがこの間の衆院選で、各候補者の主張をわかりやすく表でまとめたサイト。あんな風にしてくれれば、みんなにわかりやすくその人の考えを知ることができる。

…いや、ちょっと待てよ。
表で示されたのは「賛成↔︎反対」のメーターで、どちらに寄っているかというものだった気がします。原発については反対寄り、辺野古基地移設には賛成、のように、一目でこの人の主張がわかるように出来ている。
しかし、これだけでその人の本当に考えていることがわかるのだろうか。表では表せない思想、信条、ビジョン、ポリシー、そして人柄などもっと感じるべきものはあるのではないか。瞬間的にその疑問が浮かびました。

演説や文章は大事ですね。できる限り目を通し、演説にも耳を傾け、この人はどんなビジョンを持っているのかを見極めなければいけないなぁと感じました。さらにそれを理解するためには、有権者の我々も学ぶしかありませんね。

わかりやすいゲーム、わかりやすい本、わかりやすい番組…もうどんどんわかりやすくなってきて、みんな難しいことが嫌いになってしまうのではないでしょうか?

今の子どもたちだけでなく、世の中的にそのような傾向が感じられます。さらには「わかりにくいのが悪い」なんて他責に走る傾向もある気がします。

「政治家が悪い」と言うのは簡単で、それを何とかするのは我々国民なのではないですか?
仕事に対して不満があるなら、正当に闘えばいい話ではないですか?

論点がズレました笑今のは他責の話です。

「わかりやすい」事が悪いのではありません。
「わかりにくい」事から逃げないために
、私はより学ばないといけないと感じるのです。と言うか、学ぶ意味はそこもあると思います。



2015/04/12 【教師教育学勉強会】教師教育学勉強会メモ

もともと教師を目指していなかった私がこんなこと言えた立場ではありませんが、この間セミナーを受けて教師教育は今後もっと考えなければならないテーマだと認識しました。

教師教育勉強会で得た知識を少しまとめます。

日本の教員の背景は非常に多様です。私の周りを見てもすぐにそれは実感できます。
この前の記事の「教員に多様性はあるのか」という問いと矛盾すると思うかもしれませんが、背景は多様です。(では、多様でないのは何だ…?とりあえず投げっぱなしにしておこう笑)
要は、教員養成系以外の課程で教員免許を取得し、教員になっているという人が多い。海外では必ず教員養成課程を経なければいけない。

これは、戦後の教員確保のために作られた制度が今も残っているということです。昔は大学に合格すること自体が大変だったし、大学で学べば高校の教壇に立てるレベルの専門知識を備えているだろうということだったと。

しかし、今は大学全入時代、単位を余分に取れば教員免許も取得できる。教員採用試験でふるいにかけられるとしても、今の倍率の低さでは、教員の質が担保できない状態にあります。

にもかかわらず、教師を教育することについてはあまり問題にされない。
これはいかん。というわけですね。

以下はメモです。
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教師教育学とは何か、には明確な定義付けはない。
教師教育者をどう育てるか。

背景
子どもたちの目がキラキラしている=脳が働いている

しのはらきくのり
脳科学者
保育士に目がキラキラしているかどうかを見てもらう。キラキラしている時、前頭葉が働いている。

はやしたけし
どういう状態が子どもたちが学んでいる状態か。キラキラしていない子が一人でもいる状態が良くない。
街にいる子たち全員の目がキラキラして欲しい。


教師教育学三分野
教員養成
教員研修
教師教育専門性開発

戦後教育がどうのこうの言っている場合ではない。

佐藤学
教師教育の書籍
研究者が考える教師教育

医学教育は確立されている。医学教育と同じようなことをやればいいのでは。

何を学んだか、どんな人が出来上がればいいか=アウトカム

教育を「学校教育」だけに狭めると…

「地域」がない
子どもが24時間でどう成長するのか

学校教育以外で何をしてきたか

大学の教師=教師教育をする者
4年間のカリキュラムがしっかりしていない
教員養成をしっかりしないと

養成→研修
開放性教員養成
海外は教員養成に入らなければならない
戦後は人材確保のため、開放性で教員になれた。
でもしか教師
校務の多忙化などにより、現場で自然に学ぶことがなくなってしまった。
官製研修だけでは…

研修→教師教育者

何ができるかを考えていきましょう。

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以上。私は今回の勉強会に参加して「教師という職業はもっと専門的でなければならないのでは?」と思いました。子どもと関わる上で必要な「知識」、「スキル」。それを下支えする「マインド」。これをバランスよく養っていかなければなりませんね。今は「知識重視」です。学校が知識を与える場所と思われているから。今後は変わっていくでしょう。

あらゆる人に関わる話だと思います。他人事にして未来の社会がどうなっても良いですか?それが今起きている「他責社会」では?

みなさん一緒に考えていきましょう。

過去の自分への反論2

過去の自分 その2 教員は小中高生時代にそこそこ勉強ができた人の集まりであることを自覚していない。
→【反論】教員免許を持っている人のほとんどは大学を卒業した人であることを忘れてはならないと思います。そして、多くは大学の学費や生活費を親にまかなってもらった人ではないでしょうか。私は私立の高校を卒業し、卒業後1年間東京の予備校で浪人時代を送りました。自分にかかったお金たるや相当額だと思います。明らかに恵まれていました。
大学を卒業すること自体がステータスになる。そんなことが自分の中で当たり前になって、私は暗に「みんな大学に進学して欲しい」と願ってしまっていた。非常に愚かでした。

同じようなことが部活動やアルバイトにも言えます。
私は中学、高校と部活動をやっていました。大変お金がかかりました。しかし、その当時はお金のことなど考えたこともなかった。部活動がやりたくても出来ない人もいる。でも、「部活動はみんなやるべきだ」と思っていました。すべて、自分がやってきたことを生徒に求めようとした結果です。
逆にアルバイトはやっていませんでした。学校で禁止されていたこと以前に、毎日部活動でアルバイトなんて考えたこともありませんでした。高校生でアルバイトをすると学力が低下するという話はよく出てきます。学力だけを切り取って考えると「アルバイトはするべきではない」という考えになるわけです。では、その人の生活はどうなるのか。毎日のようにアルバイトをして、自分でお金を貯めて様々な事をやりくりしている生徒がいます。遊ぶためのお金だけではない、生活にかかるお金も自分でまかなっています。自分の稼いだお金で生きています。私が高校のときに経験していなかったことをすでに経験し、非常にたくましく生きていると思うのです。
教員に多様性はあるのでしょうか。教員はこれまで「良い」とされてきたことを忠実にこなしてきた集団の可能性が高いです。そして、その集団から受ける教育はいつまでも連鎖的に続いていくのだと思います。負の連鎖はここにもありました。
これを社会問題と言わずに何と言うのでしょうか。

私の役割は以上のことから「社会全体の負の連鎖を断ち切ること」とどんな状況下に置かれても逆境を跳ね返し、幸せを感じられるように「生徒の幸せの感受性を高めること」だと考えています。

話し下手による『学び合い』の「語り」

本日はON先生とかわいいかわいい赤ちゃん先生が授業見学に来てくださいました♪生徒もみんな大喜び。やっぱり、子どもはかわいいですね。みんながハッピーな気持ちになれます。『学び合い』の授業は赤ちゃんも一緒に受けられます!

今日は2年生物基礎の初回の授業です。昨年度「科学と人間生活」で全員授業を受け持ったので、私がどんなことを考えているのかは話をしています。それを踏まえて、何を話ししようか考えに考えた結果、結局まとまらず…口をついてでてくる言葉だけで思いを伝えました。

 

授業終了後、 ON先生と懇談。「『学び合い』を始める勇気がもらえました」とのコメントをいただき、話し下手な自分の語りが踏み出せない方たちに「これでいいんだ!」という気付きを与えられることがわかりました。なるほど、確かにうまい語りだけを見せられたら「私にはできないな」となるのも納得です。

 

色々話をしながら私の中にも気付きがありました。


『学び合い』を始めた約3年前の語りは、本に書いてあるような「型」を真似ていただけで、結局は自分のものになっていませんでした。でも、今は自分の考えていることがすぐに口をついて出てくる。大体の質問にも答えられる。『学び合い』の「語り」は一生懸命準備するものではなく、『学び合い』の考え方を自分のものにした時に、伝えたいことを伝えているだけなのだなと。その都度、気付いたことがあれば全体に話をする。自分のやっている「語り」って単にそれだけのことだったのですね。

 

自分がどんな思いで教師をやっているか。それを話し下手でも一生懸命伝える。それで十分『学び合い』はできます。


スッキリしました。ONさんありがとうございました!

過去の自分への反論1

過去の自分 その1 自分の受けてきた教育に基づいて教育をしている。
→【反論】あくまで自分にその教育がマッチしたというだけで、それが目の前の生徒にマッチするとは限りません。感じ方は人それぞれですから。おそらく、昔からマッチする人としない人がいて、マッチした人が先生やっているのではないかと思います。マッチしなかった人で先生やっている人を知っていますが、かなり例外でしょう。どんなに自分がわかりやすい授業を考えても、それで「全員」が理解できることはまずあり得えません。
最近は教師の専門性を考えるようになりました。教師は決して「自分の経験から得られたもの」だけでできるものではないと考えます。人の生き方を左右するくらい重たい仕事です。医者と同じくらい重たいです。自分の経験だけで教師をすることは、医者に例えれば、ぶっつけ本番で外科手術をするようなものだと思います。医者が患者を見ながら病気の研究をするように、教師も子どもたちを見ながら教育を研究しなければ。ゼロから始める必要はありません。教育学の研究にも膨大な蓄積があります。しかし、そこから得られた理論が実践に活かされることはあまりありませんでした。以前自分が悩んでいたことも、実はとっくの昔に研究されていた可能性があります。私も大学で真面目に教育学を学んだわけではありませんでした。むしろ、教育学をバカにしていました。愚かでした。今はそのようには思いません。教師に必要な資質とは何か。どんな能力が必要か。そんなことを真面目に考えるようになりました。
時代の変化はとにかく速いし、生徒たちの様子だって変わっています。その中で、目の前の生徒にできる最善のことを「ゼロ」から考えてみる。『学び合い』を知ったときはとにかく「正論だけどねぇ…」と思っていましたが、現場の様子と『学び合い』の理論を照らし合わせていったときに、生徒たちの苦しい姿に共感を覚えるようになりました。先生の言うことを鵜呑みにする「従順な生徒」が増えているように感じるのは気のせいでしょうか。私はここ2、3年で自分自信が「従順な生徒」の延長であることに気付きました。そこから大きく変わりました。だから、こうやって発信できるのだと思います。もちろん、これで終わるわけではなく、常に「学び続ける」ことを怠らないようにします。

うまくまとまりませんでしたが…まずはこんな感じで。乱文失礼しました。

『学び合い』を知る以前

こんなこと書いていいのかなぁ…なんて言いながら載っけちゃいますけどw
私が『学び合い』を知るまでどんな教員だったか。そして、どう変わったか。思いつくままに。挙げればキリがありませんが。なぜ、私が今学ぶのかもすべてこれに基づいています。
※あくまで私の話です。
1.自分の受けてきた教育に基づいて教育をしている。
2.教員は小中高生時代にそこそこ勉強ができた人の集まりであることを自覚していない。
3.社会問題を理解していない。
4.教育学の理論が役に立たないと思っている。
5.学習指導要領を軽んじている。
6.人は多様であることをちゃんと理解していない。
7.生徒が自分の理想通りにならないことを指導力不足と思う。
8.部活動で生活指導をしていくものと思っている。
9.厳しい社会でもやっていけるように、厳しく学校でしつけようとしている。
10.授業はとにかく自分が全てを仕切って、まとめようとする。
11.起立、礼、着席で生徒の気持ちが切り替わると思っている。
12.髪の色、ピアス、身だしなみから人は変わるものと思っている。
13.ノートは真面目に取り、プリントは完成させ、テストで良い点数を取る生徒を良い生徒と思っている。
14.部活もやらずにバイト三昧で遊びほうけている生徒はダメな生徒だと思っている。
15.教育のビジョンがない。
16.平日、土日構わずバリバリ部活動をすることが素晴らしいことと思っている。
17.授業中に私語をする生徒、寝ている生徒をなんとかしなければと思っている。
18.生徒が大人しくなった理由が生活指導のおかげだと思っている。
19.勤務校が良くなっているという実感を目の前の生徒に伝える。
20.生徒にナメられてはいかんと思っている。
21.怒鳴ることができるかどうかが指導力の差だと思っている。
22.生徒とは戦うものだと思っている。
23.高校卒業することが最上位目標だと思っている。
24.組合が自分の権利ばかりを主張している組織に見える。
25.人権をほとんど意識していない。
26.生徒を「今の子」というレッテルを貼って見ている。
27.遅刻をした生徒にペナルティを課すことで遅刻が治ると思っている。
28.生徒のためならプライベートを犠牲にするのは当たり前だと思っている。

これ面白いなw 後の記事でこれに反論したいと思います。
昔の自分に反論するって。でもこうやって書けるということは、自分の考え方がどれだけ変化したかも良くわかります。劇的です。恐ろしいですねぇ。

今年度の時間割が確定しました。

2015度の時間割が確定しました。今年度から(積極的に)授業公開します。授業見学をご希望の方はこちらからお問い合わせください。

【今年度担当する授業】

1年 科学と人間生活(2単位)…必修科目です。23名の少人数展開授業です。

2年 生物基礎(3単位)…選択必修科目です。今年度は1クラス26名の1講座のみです。

3年 基礎科学(2単位)…必須科目です。2単位中1単位を受け持っています。

     総合A…課題学習です。

     LHR…ロングホームルームです。


時程は以下の通りです。

1限  8:45~ 9:35

2限  9:45~10:35

3限 10:45~11:35

4限 11:45~12:35

5限 13:20~14:10

6限 14:20~15:10

 
1 基礎科学
3-2
科学と人間生活
1-5・6
    基礎科学
3-4
2 基礎科学
3-4
基礎科学
3-6
科学と人間生活
1-1・2
  総合A
(選択)
3 基礎科学
3-1
科学と人間生活
1-1・2
    科学と人間生活
1-3・4
4   基礎科学
3-5
LHR
3-4
科学と人間生活
1-3・4
 
5       生物基礎
2-3・4
生物基礎
2-3・4
6 生物基礎
2-3・4
  科学と人間生活
1-5・6
   

四季を感じて欲しい

 桜の花びらが散り始め、若葉が少しずつ大きくなっていくのを見て、あぁ…もったいないなぁと思います。花びらが散るのがもったいないわけではなく、生徒たちに四季を肌で感じてながら生物について学んで欲しいからです。四季を感じることができるのは、生きてる年の数だけですからね。これから、葉っぱが大きくなっていっぱい光合成して、寒くなると紅葉して、落葉して…エネルギーコストを抑える。
 これまで「植生」については一年の前半で扱った年もあるし、後半で扱った年もあるし…でも結局1年を通しては見ていないため、イマイチピンとこないんですね。


…そうか、同時並行でやっちゃえばいいんだ。



ちなみに今年度も2学年生物基礎3単位。
1時間は「分子生物学」
1時間は「生態学」
もう1時間は…考え中。

んで、終わったら何回も繰り返し勉強したらいいじゃん。もちろん、通底概念は外さずに。

よし。これで行こう。
3月30日の桜
3月30日の桜
4月3日の桜
4月3日の桜
4月1日の桜
4月1日の桜
4月5日の桜
4月5日の桜

4月6日のメタセコイア
4月6日のメタセコイア
4月6日のメタセコイアの若葉
4月6日のメタセコイアの若葉

「教養」について考える

  世の中にコンテンツが溢れまくっていて、一人ひとりの意識の方向も多岐に渡ってきています。そうなるのは当然です。
  さて、そんな時代に学校で習う「教養」はみんなが持つべきものなのか。どうですか?因みに「教養」はあるに越したことはないです。僕の問いは「全員が同じことを学ぶ必要があるのか」ということです。
  もっと必要な何かがあるのではないでしょうか。「教養」を学ぶことより他者を認めることの方が大切ではありませんか?「自由の相互承認」です。
  教員が一生懸命教えようとしている教科の内容は何十年もの間ほとんど変わっていません。時代がこれほど変化しているのに、学ぶべき内容が変わらないなんてことはあり得ないと思います。
ほとんどアップデートされていないわけです。

  学校で学んだことのほとんどは実生活で役に立たないと言っても誰も否定できないでしょう。それとも、知らないうちに学んだことをすべて役立てていますか?そのくらい、学んだことがすべて染み付いていますか?

   恥ずかしながら僕はもともと本をあまり読みませんでした。でも、今は自分から進んで読もうと思います。
また、中学・高校の「社会」という教科が苦手でした。覚える事が沢山あって、社会はいつも点数が取れませんでした。でも、今は世界史や日本史を学ぼうとしています。

全部『学び合い』を知ってからです。それから社会に目を向けるようになり、様々な問題は教育から解決していかなければならないと感じ始めたのです。

  今なら歴史を学ぶ意義が自分なりに説明できます。歴史を「過去の出来事」として学ぶのはノンフィクションの物語をただ追いかけるだけ。僕はそこに魅力や意義を感じなかった。
  今の社会と歴史は切り離せない。その当時の思想や出来事(事実)から、現代社会で起きている問題を理解することができる。そして、問題を解決するためのヒントを得ることができる。また自分がより良く生きるヒントが得られるものだと思っています。
 今は歴史を学んでも、それらが過去のことのようには感じません。

  政治経済も倫理も、今更ですがちゃんと勉強したいと思います。学ぶ意義が今なら理解できるからです。全てはより良い社会と意思決定のためのものです。これこそ「教養」なのだと思います。闇雲に知識を得るだけが「教養」ではない。昨年度の一年でそれがわかりました。

  もっと早く知りたかった。でも、学生をやっているうちは「学びたい」なんて気持ちにはならなかったでしょうね。
大人になってなぜ勉強したくなるのかも理解できます。

  だから、早く社会を経験することが一番成長につながると思うわけです。学びたい人が学べばいい。それを「高校くらい卒業しないと社会でやっていけない」なんていかにもなことを言って高校に行っている(行かされている)ことは残念でなりません。

  成果が後から付いてくることもあります。でも、僕が経験した「とりあえず進学しとく」ような時代は終わりにしないと。少々乱暴な言い方をすれば、あっても無くてもいいことが多すぎます。これだけ情報を浴びせられる時代ですから、必要な情報を自分で拾い、自分のやりたいことをやればいい。

  学校教育の効果が試されるのは生徒が卒業してからではなく、もっと後でしょう。教育を受けた生徒が社会の中核として生きる時代、どんな社会になっているかが重要だと僕は思います。