なぜ「変わること」を強制するのか

半年程前、進路学習の一環として、NPO法人企画で社会で活躍されている人をゲストでクラスにお招きし、話を聞くというイベントがありました。

僕のクラスは、青年海外協力隊でバヌアツに体育を教えにいっていた方でした。この方の話はとても印象に残っています。

バヌアツは近年都市化が進み、昔ながらの生活を送ってきた原住民の一部は、近代的な生活に憧れて都市部に集まってくるようです。しかし、上手くいかず、都市近郊にはスラム街ができているとのこと。
果たして、都市化してこれまでに無い便利な生活をすることが幸せな事なのか。これは、同じ道を歩んできている(現在進行形ですね)我々にも同じことが言えますね。

JICAでは現地に派遣される前に「直接教えることが仕事ではなく、向こうの人が自律してやっていけるようにサポートすることが仕事である」と研修で指導を受けるらしいです。

その方はバヌアツで現地の教員のサポートを任され、教員養成のための指導を行っていたのですが、バヌアツの人は仕事をよくサボり、仕事の途中で家に帰ってしまうこともあったと聞きます。中々日本人の言うことを聞いてくれなかったわけです。

話を聞けば、
「どうしてお前たちはこんなに成長する、変わることを強制するのか。僕たちは今まで変わらないことが幸せだったのに。今日生きて、また明日も変わらず生きていければ僕らは幸せなんだ」
と言ったそうです。

成長したいという欲望は人が本来持っているものと思っていた自分は、その話でまた違う世界を見ることが出来たと思いました。
どうでしょう、これも学校の教育とつながりませんか?私たちは生徒に暗黙に「成長しろ」と言っている。それは、確かに生徒に望むべきことかもしれません。しかし、人の成長は強制されるものではないでしょう。