「自分」と「相手」が「違う」ことを知る

 3月9日、日比谷図書館にて、「きくってなんだろう?」というイベントに参加してまいりました。参加者約20名が円になって座り、会が進行していきます。なんとも言えぬまったり感。その中に様々な価値が見え隠れしてとても面白い会でした。

 

  僕にとっての「きく」ということはどういうことか。

  そもそも、僕は話すのが苦手で、多くの場合「聞き役」のことが多いです。それは、別に嫌な訳ではなく、その人のことを知ることができるという意味で大変面白いことだと思っています。

自分は「人」が好きなのかもしれません。

相手に興味があるから色々と聞きたいことが出てくるし、同時に自分もさらけ出してしまう。

 

逆に、話をしようと思うと、「相手にわかりやすいように」とか「おもしろく」とかすごく意識してしまうため、結果うまく話すことができない。「下手なこと言ってつっこまれたらやだな」と思っている自分がいます。どんな人が相手でも、おそらく「きく」ことはできます。相手を引き出すという意識などではなく、相手がリラックスしてありのままで接してもらいたいと思っているのです。

 

 非常に印象的だったのは、「共感は実は危ういことかもしれない」ということ。会話をする中で「相手のことを共感する瞬間」とは、結局自分の写しを感じているに過ぎない。

共感している相手の考えていることは、実は自分の思っているものとは違うのかもしれない。

それは、最近流行っている、同じドレスが「金と白」「黒と青」など、見る人によって色覚の感じ方が異なるのと同じ。

その人の見ている世界は誰一人として同じではない。

 

はじめは自分の写しを見ているのだけれど聴けば聴くほど共感しない部分が見えてきて、それが「自分との違い」になっていく。徐々に目の前の人が自分ではない人間になっていく。そこで初めて目の前の人が自分ではないことを知る。

ちょっと哲学チックですが。この感覚は、相手を理解する上で大切な気がします。

「相手が自分とは違うことを知る」それが「きく」事なのかもしれませんね。

 

  また、共感は人に快楽を与えているかもしれません。みんな共感を求めて人とつながる。共感は人をまとめる働きもある。それが大きくなった時、共感できない人が「異質」になってしまう。これも共感の危うさかな。

 

参加者のみなさんそれぞれの「きく」にもバリエーションがある。

「30㎝後ろから聞いている」

「相手の話が活字に置き換わる」

「そもそも、ここにいる人ほど「きく」事に興味がない」

などなど。

ある人は「テーマが「人ってみんな違う」に変わった。それが面白い。」と言ってました。

 

  全く分からない、共感できないという集団が上手くやっていく事の大切さ。

「この人は全く僕と違う。共感する部分が一つもない。それがいいよね。」

という感覚。

 

違うことが分かる事は大切だなと感じた日でした。