「幸せ」の押しつけ

「みんなが幸せな社会を目指そう」 
と言う言葉に暗に「みんな幸せになろう」という意味が含まれていないか。 

何を幸せと感じるかは人それぞれだし、そもそも幸せを求めるかどうかも押しつけられるものではありません。そんな価値を自分は押しつけていないだろうかと内省します。 
生きていくのに必死な人は「幸せかどうか」なんて言ってる場合ではないかもしれません。とにかく生きなきゃいけない。そのような人はもしかしたら「相互承認の感度」が低いかもしれない。でも、周りがそれを受け入れるだけの「相互承認の感度」を持っていればいいのです。
「相互承認の感度」が高い、低いを比べて「不平等」という言葉で片付けることは、実は厄介なことだと思いました。 「平等」という言葉は大切かもしれませんが、その裏に陥りやすい罠が隠されていると感じます。

全体として「相互承認の感度」が高い人が多い方が良いのかもしれませんが、社会のシステムがどんなに変わっても、必ず貧しさや生まれながらに不自由さを感じる人はいます。お金で解決出来るものだけじゃありませんし。そんな人でも、安心して生きていくためには、自分が安心し、認められるという原体験が大切。原体験を与えられるのが学校という場所だと認識しています。 
これは、同僚であり、先生よりも長い時間を共にするクラスメイトやその他の横のつながりで体験できることです。その体験のチャンスを奪わないために、教員は余計なことはするべきじゃないと思うのです。
こちらの見取りが正しいとも限らない中で、仲の良い子を一緒にさせるとか仲の悪い子を離すとか、生徒を操作することは果たしてプラスなのか。教員が手をかければかけるほどチャンスは失われます。