「教養」について考える

  世の中にコンテンツが溢れまくっていて、一人ひとりの意識の方向も多岐に渡ってきています。そうなるのは当然です。
  さて、そんな時代に学校で習う「教養」はみんなが持つべきものなのか。どうですか?因みに「教養」はあるに越したことはないです。僕の問いは「全員が同じことを学ぶ必要があるのか」ということです。
  もっと必要な何かがあるのではないでしょうか。「教養」を学ぶことより他者を認めることの方が大切ではありませんか?「自由の相互承認」です。
  教員が一生懸命教えようとしている教科の内容は何十年もの間ほとんど変わっていません。時代がこれほど変化しているのに、学ぶべき内容が変わらないなんてことはあり得ないと思います。
ほとんどアップデートされていないわけです。

  学校で学んだことのほとんどは実生活で役に立たないと言っても誰も否定できないでしょう。それとも、知らないうちに学んだことをすべて役立てていますか?そのくらい、学んだことがすべて染み付いていますか?

   恥ずかしながら僕はもともと本をあまり読みませんでした。でも、今は自分から進んで読もうと思います。
また、中学・高校の「社会」という教科が苦手でした。覚える事が沢山あって、社会はいつも点数が取れませんでした。でも、今は世界史や日本史を学ぼうとしています。

全部『学び合い』を知ってからです。それから社会に目を向けるようになり、様々な問題は教育から解決していかなければならないと感じ始めたのです。

  今なら歴史を学ぶ意義が自分なりに説明できます。歴史を「過去の出来事」として学ぶのはノンフィクションの物語をただ追いかけるだけ。僕はそこに魅力や意義を感じなかった。
  今の社会と歴史は切り離せない。その当時の思想や出来事(事実)から、現代社会で起きている問題を理解することができる。そして、問題を解決するためのヒントを得ることができる。また自分がより良く生きるヒントが得られるものだと思っています。
 今は歴史を学んでも、それらが過去のことのようには感じません。

  政治経済も倫理も、今更ですがちゃんと勉強したいと思います。学ぶ意義が今なら理解できるからです。全てはより良い社会と意思決定のためのものです。これこそ「教養」なのだと思います。闇雲に知識を得るだけが「教養」ではない。昨年度の一年でそれがわかりました。

  もっと早く知りたかった。でも、学生をやっているうちは「学びたい」なんて気持ちにはならなかったでしょうね。
大人になってなぜ勉強したくなるのかも理解できます。

  だから、早く社会を経験することが一番成長につながると思うわけです。学びたい人が学べばいい。それを「高校くらい卒業しないと社会でやっていけない」なんていかにもなことを言って高校に行っている(行かされている)ことは残念でなりません。

  成果が後から付いてくることもあります。でも、僕が経験した「とりあえず進学しとく」ような時代は終わりにしないと。少々乱暴な言い方をすれば、あっても無くてもいいことが多すぎます。これだけ情報を浴びせられる時代ですから、必要な情報を自分で拾い、自分のやりたいことをやればいい。

  学校教育の効果が試されるのは生徒が卒業してからではなく、もっと後でしょう。教育を受けた生徒が社会の中核として生きる時代、どんな社会になっているかが重要だと僕は思います。