「わかりやすい」ことの弊害

わかりやすい授業、わかりやすい文章、わかりやすい図…多くの先生が生徒のために努力して準備している。私もそれは意識します。

しかし、「わかりやすい」ことが100%良いこととは思いません。

 
その前に、「わかりやすい」も人それぞれですからね。それは大前提です。

わかりにくいものを自分なりに紐解く経験をしていかなければ、わかりにくいことに出会った時に、そこを避けて通るようにならないか。

一緒に帰った同僚のS先生と電車の中で
地方統一選挙の話になり、
「市議会議員選とか候補者もいっぱいいるし、主張も色々でわけわからなくなるよね」と。
そこで思い出したのがこの間の衆院選で、各候補者の主張をわかりやすく表でまとめたサイト。あんな風にしてくれれば、みんなにわかりやすくその人の考えを知ることができる。

…いや、ちょっと待てよ。
表で示されたのは「賛成↔︎反対」のメーターで、どちらに寄っているかというものだった気がします。原発については反対寄り、辺野古基地移設には賛成、のように、一目でこの人の主張がわかるように出来ている。
しかし、これだけでその人の本当に考えていることがわかるのだろうか。表では表せない思想、信条、ビジョン、ポリシー、そして人柄などもっと感じるべきものはあるのではないか。瞬間的にその疑問が浮かびました。

演説や文章は大事ですね。できる限り目を通し、演説にも耳を傾け、この人はどんなビジョンを持っているのかを見極めなければいけないなぁと感じました。さらにそれを理解するためには、有権者の我々も学ぶしかありませんね。

わかりやすいゲーム、わかりやすい本、わかりやすい番組…もうどんどんわかりやすくなってきて、みんな難しいことが嫌いになってしまうのではないでしょうか?

今の子どもたちだけでなく、世の中的にそのような傾向が感じられます。さらには「わかりにくいのが悪い」なんて他責に走る傾向もある気がします。

「政治家が悪い」と言うのは簡単で、それを何とかするのは我々国民なのではないですか?
仕事に対して不満があるなら、正当に闘えばいい話ではないですか?

論点がズレました笑今のは他責の話です。

「わかりやすい」事が悪いのではありません。
「わかりにくい」事から逃げないために
、私はより学ばないといけないと感じるのです。と言うか、学ぶ意味はそこもあると思います。