シチズンシップに創造力は必要か

 選挙投票を促すポスターを見かけます。これは、「投票」という行為そのものを促しているのであって、「政治に参加しよう」とか「より良い社会について考えよう」みたいなメッセージとして受け止める人はいないのではないかと思います。

 私はアルバイトで塾の講師をしていたとき、小学生や中学生に向けて「では、鉛筆をもって」や「顔を上げて」と、一つ一つの行為を指示する授業テクニックを教わりました。「単指示」と言っていました。

 私にはどうも、有権者へ「投票しよう」と促すポスターが「単指示」に見えて仕方がありません。何も知らないけれどとにかく投票しろと。

「投票」は私たち一般市民が政治へ参加するために、法で守られた末端行為です。この、末端行為だけを促しても、根っこがなければ根本的な問題解決にはなりませんよね。投票の経験が政治へ関心を持つ切欠になるかもしれませんが、本当にこれでより良い社会へ向かうのかは疑問です。「投票率」を上げることが目的になってはいないか。かといって、「政治に関心を持とう!」なんて言っても何も響かないのかもしれません。


 この間、ONさんと「シチズンシップに創造力は必要か」という話にもなりました。(シチズンシップについてググったところ、シティズンシップ教育推進ネットというサイトがありました。)

 教育について議論をするとき、どうしても「産業界」が求める人材に目が移りがちです。国をつくる一般市民としてどのような力が必要かという話題が抜け落ちてしまいがちです。普段の何気ない生活に問題を見出す力(ここでは「問題創造力」と言うべきでしょうか)は、最終的に政治参加へ向かう力になると考えます。新しいものを生み出す力だけが創造力ではなく、自分たちがより良く生きていくために何が必要かを自分たちで考え、決定し、行動することも創造力と直結していると思います。

 「今は何も不自由ないから問題なし。」と思っていたらいつの間にか戦争が始まってしまったり

 「生活が苦しい。一体政府は何をしているんだ。」と愚痴だけこぼして自分は政治に無関心だったり

現代は「他責社会」です。このような状態をどう打破するか。


 学校という組織は社会のシステムをロールプレイできるようにできていると思います。「僕が総理大臣に直接文句を言えないように、みんなも校長に直接文句は言えない。学校に文句があるなら、正当な方法で文句を言えばいい。そのしくみは生徒手帳に書いてある。それが民主主義ではないのか。」と生徒に伝えています。大抵、面倒臭がります。「そんなことするなら、何もしないで従っていた方がマシ」なのでしょう。考えることが面倒臭い。学校はそんな若者を社会に送り出してきたのではなでしょうか。


 子どもたち一人ひとりの幸せな人生を考えるとき、国のあり方、国を構成する市民のあり方もまた考えなければならないのだと思います。