トリコロールを掲げること

11月13日パリで発生したテロにより亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げます。そして、フランス国民、パリ市民、その他テロ被害の関係者の方々の怒りと悲しみに対し、何と言葉を表したら良いかわかりません。みなさんの気持ちに寄り添い、元気付けたい気持ちとは裏腹に、何をすればいいかが分かりません。
日本を含めた世界各地の著名な場所で赤・白・青のフランス国旗トリコロール柄でライトアップし、追悼の意を表明しています。
Facebookでもトリコロールをプロフィール写真に重ねるアクションが広がっています。自分も…と考えましたが、思い留まりました。引っかかるところがあったからです。

Facebookでこのようなブログがシェアされていました。ここに書かれていることは、その「引っかかるところ」の一つだと思いました。

"『Facebook』プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと"

ここに書かれているような、トリコロールの背景や、そもそもなぜISがテロを起こすのかを考えると、このアクションが世界にどんな影響を与えているのかは無視できないのです。
アクションが意図することは「パリ市民の安全と平和を願う」なのは分かっています。しかし、対立するISの人たちの目にはどう映るのでしょうか。世界中でフランス国旗を掲げることが「私たちはフランスの味方です」という意味に取られないとも限りません。ISはどんどん孤立しています。「周りにはトリコロールを振るような敵しかいない」と思っているかもしれません。捨て身で戦う覚悟のある「無敵の人」たちにとって、このアクションが戦意を向上させる可能性すらあるように思います。
世界にはISに賛同する人もいることを忘れてはならないでしょう。ISの「マインド」に賛同する人たちがいるのです。どんなにISに反撃しても、「マインド」の根絶は難しいことは分かっているのに、国レベルの解決策は「IS壊滅」だけなのです。新たな解決策はまだどこにもありません。
「マインド」が起こす戦争である限り、両者の「マインド」の理解がなければ負の連鎖は断ち切れません。今世界で起きているアクションは、被害者に対する「感情」の表明です。その奥で、どんな「マインド」が見え隠れしているのでしょうか。そして、テロリストたちはそれをどう感じるのでしょうか。

大きな戦争が起きないとも限らない状況にあります。そして、日本の立ち位置はつい数ヶ月前の安保法可決によって、ISの敵と見なされてもおかしくない状態になりました。私たちが学んできた過去の記憶とも様子の違う戦争が既に始まっているのかもしれません。誰がテロリストでもおかしくない世界は、他人を疑って信じることの出来ない世界です。一度こうなると、元の世界には簡単に戻せなくなりそうです。考えただけでも身の毛がよだちます。
例え戦争が起き、先進国の力で抑え込み、終焉を迎えても、いつまでも憎しみは残ります。何の解決にもならない。このことは戦争を経験しないと分からないことなのでしょうか?これだけ、過去の過ちから反戦を願う市民がいるにもかかわらず。

みんな戦争などしたくないのに、戦争が起きてしまう。長い人類の歴史に、戦争がなかった時代はないと言います。
しかし、そこから「ヒトは争う生き物である」とか「人間社会から戦争は無くならない」という結論を出してしまうことは、全く安易だと考えます。
歴史や過去の偉人の思想から学ぶべきことは沢山ありますが、そこから人間の真理が得られる訳ではないと思います。様々な偉人が出してきた結論は、正解ではありません。時代は常に変化し、同時にヒトの在り方も変わっているのですから。

教育現場のいわゆる「不良」たちとISは自分の中で重なる部分があります。「悪い」ことが本質ではなく、「悪者あつかい」されてしまっていることが本質です。
平和学のヨハン・ガルトゥングも言っています。「テロの悲惨さに対し、これまでアメリカやフランスが行ってきた空爆などはどう説明されるのか」と。我々は対立する世界の「一方」に知らないうちに加担している可能性を考えなければならないと思います。
生徒に対する教師の振る舞い方は、まさにここと繋がります。
岡本茂樹著「反省させると犯罪者になります(新潮新書)」の内容にも繋がります。
生徒が悪者になるかどうかは、教師の振る舞いに方によるところが大きいのです。問題行動を助長するもまた然り。それを知らずに、悪者を囲い込み、排除しようとする。このような世界を多くの人は望んでいるのでしょうか?

ISの人は攻撃的で野蛮であると思われがちです。しかし、本当は理論的で、理解力がある普通の人間であることを、ガルトゥング氏は知っています。実際に、ISの人と対話をしたからです。ガルトゥング氏は対話を繰り返し、様々な紛争問題を解決してきました。このような、紛争を解決する力は生まれもった特別な能力などてはなく、教育によって身につけられる力だと信じています。理論的にだけでなく、感覚的にも。
まずは、他人(生徒)を信じることだと思います。そして、話を聞いて、どうすればお互いの目的が達成されるかを一緒に考える。2つの矛盾する目的の達成のためにはこれまでにない、全く新しい提案が必要です。そこには、学び続ける意思と、クリエイティブな思考が必要なのです。これからの教師の必要な力はこのような視点からも考えられそうです。

個人レベルのミクロな事象から、世界規模のマクロな事象まで、起きている問題は多様であれ、本質は変わらないと思います。傷口に絆創膏を貼って、怪我を治すような、表面的で、即効性のある治療ではなく、時間はかかってもからだに備わっている自然治癒力を強くし、じっくりと根治していくように、地球と地球市民を強くしていく。

これからも「なぜ戦争が起きるのか」「ヒトとはどんな生き物なのか」を探求し、地球市民として必要な教育の在り方を模索し続けていきたいと考えています。思考停止しないように。