「平等」という名の不平等

学校現場において、教員は生徒に対して平等でなければなりません。

が、しかし、ここには落とし穴がある気がします。

平等な教育 = 画一的な指導

になっていないかということです。


画一的な指導というのは、すべての生徒に対して、同じレベルを求めるということです。様々な意味で。

一見良さそうですけどね。でも、能力とか、価値観とか生徒も多様なわけなので、同じことを求めても、できる人とできない人は出てくるでしょう。つまり、それぞれに合った教育でないと平等とは言えないのではないかと思うのです。

だから、「選択」が必要なのだと思います。選択の幅が広ければ広いほど、その人に合った教育を受けられる可能性は高くなる。
もちろん、初めから合う教育、合わない教育が固定されているわけではありません。初めは合わなかったけど、徐々に合うようになることも考えられます。なので、選ぶことで100%その人に合う教育に出会えるとは限らないことには留意しなければなりません。

教育における本当の平等とはあらゆる点で「機会均等」であることなのではないかと思っています。
例えば、選択の幅が広くても、その選択肢を知らなければ選べないです。教育を受ける権利を持つ生徒から、その機会を奪わないように心掛けたいですね。

これまで良しとされてきた指導方法の中には、学ぶ機会を奪ってしまっているであろうものがゴロゴロしています。
謹慎指導とか…。下手すると、レッテル貼りで終わってしまいますからね。
機会は均等にしておいて、子どもの意思でそれを受けるかどうかを決める。すると、子どもは主体的に自分に必要なことを考えて、行動するようになるのではないでしょうか。